『般若心経秘鍵』に学ぶ ⑧

 

夏になると、全国各地の池には美しいはすが咲きほこります。蓮の花言葉は「きよらかな心」「神聖しんせい」であるといわれますが、まさしく暑い夏の早朝に咲くその花は私たちに清々すがすが清々しさを与え、見るものを感動させます。蓮はどろの中にあっても必死に養分を集めて成長して、水面からくきを伸ばして、やがては泥の中で育ったにもかかわらず、一滴の泥も付けずに美しく開花します。そのように育つ過程は、煩悩ぼんのうという泥に染まらず、やがてはさとりという美しい花を咲かせることを目指す、仏教の教えに一致するといわれます。

さて、お大師さまは『般若心経秘鍵』の中の詩文しぶんの一節で蓮について右のようにお書きになっておられます。

 

はちすかんじて自浄じじょうを知り このみを見て心徳しんどくさとる~

まず、蓮を「ハス」でなく「ハチス」と読んでいるのは蓮の古い読み方であります。蓮の実の入った花托かたくの姿が、はちに似ていることから昔はそのように読んでいました。

この詩文で、お大師さまは「蓮を観察すると、自分の心の清らかさを知ることができる。蓮の実を見ると心の徳を覚ることができる」と申されています。

私たちは、煩悩という泥におおわれたこの世に生きています。その煩悩の根源こんげんは三つの毒といわれます。一つには、欲しいものが手に入っても、さらに欲しいものがでてきて、自我じがの欲望をおさえることができない「むさぼり」という毒です。二つには、自分の嫌いなものに対して反発したり、腹を立てたりする「いかり」という毒です。三つには、他人のことなど考えずに、すべて自分の思い通りにしたいと考えてしまう我がままな「おろかさ」という毒です。この三つの毒をもととして、除夜の鐘でも有名な百八つの煩悩となります。それがいわゆる辛い、悲しい、苦しいという感情を生み出したり、他人への愚痴ぐちや不満、悪口を言うようになったり、感謝の気持ちすら失われることにつながるのです。私たちの人生においては楽しさも勿論もちろんありますが、三つの毒から沸々ふつふつき出るこれらの苦しみの方が多いのではないでしょうか。そのような意味で私たちが生きるこの世は苦しみに耐えしのぶ世界であり、蓮の育つ環境でいう泥と表現するわけです。

その泥のような苦しみに耐え忍ぶ世界にたとい身を置いていても、三つの毒のようなものに染まることなく、誰もが本来は美しい蓮の花のような、清らかな心を持っているということをお大師さまは千二百年前の当時に一本の蓮から感じ取られたのでしょう。また、その清らかな心を象徴しょうちょうする蓮の実をご覧になって、心徳しんどくを覚られたのでしょう。蓮の実は、普通の花が咲いてから実をつけるのに対して、まだつぼみのうちから中に実をつけることから仏性ぶっしょう(一切衆生いっさいしゅじょうが本来持っている仏さまになりうる可能性)に例えられます。それが、ここでお大師さまが申されている心徳という言葉にあらわれていると思います。すなわち、蓮のように清らかな心の中には、しっかりと仏さまの心徳という実を誰もが宿やどしているということです。またそれは、ぶつかり合うことのない仏さまの円満な悟りの境地を意味するのであります。

お大師さまは、泥の中から茎を出し、その泥に染まることなく美しく花を咲かせる蓮と私たちの人生を照らし合わせて、その御教みおしえを今に生きる私たちにおきになっているのではないでしょうか。

今、世界を見渡せば戦争やテロの恐怖があり、また、日本に至っては虐待ぎゃくたいいじめが多発する社会です。私たちのさらに身近なところにおいては、何か安心できないような心を多くの方が抱えていることでしょう。これらは、まさに三つの毒から生じたものです。お大師さまの御教えの薬が解毒作用げどくさようを起こし、「怒り」は「喜び」に、「貪り」は「満足」に、「愚かさ」は「智慧」となり、皆が仏さまのような円満な心となることを願うばかりです。