『般若心経秘鍵』に学ぶ ②
~無辺の生死は何んが能く断つ~
仏教では、果てしない迷いの世界をグルグルと車輪のように廻っている状態を六道輪廻と言います。迷いの世界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道をいいます。お墓の入口には六地蔵さんが安置されていますが、この六地蔵さんは、私たちが死後、六道に迷わず、仏さまの世界に行けるよう護ってくださっているのであります。私たち人間は生きていれば、もちろん楽しいこともたくさんあるでしょうが、それ以上に悩みや苦しみのある人生で最後には死の苦しみを味わうという、やはり迷いの世界にいるわけであります。たとえ天界に生まれたとしても、やがては衰え死苦を受けます。死んではまた生まれ、また生きては死んでの繰り返しが輪廻でありますが、この限りない生死の繰り返しをどうすれば断絶できるのだろうかということを「無辺の生死は何んが能く断つ」というお言葉でお大師さまは問うておられるわけであります。
~唯禅那正思惟のみ有ってす~
この限りない苦しみの輪廻から解き放たれる答えが、禅那と正思惟の実践であります。禅那とは、禅定のことであります。禅定とは、瞑想や座禅をして精神集中している状態、動揺しない「安らかな心」を表し、正思惟とは正しい見解、正しい思考のことで「智慧」であります。諸行無常の苦しみの世界を乗り越える答えとして、お大師さまは、「安らかな心」をもって「智慧」を深めていくことが大切であると申されています。
私たちの心には貪・瞋・痴という三つの毒があります。貪とは、欲深く物を欲しがる貪りの心、瞋とは自己中心的な心で怒ったり腹を立てたりする心、痴とはすべての事を自分の思い通りしたいという道理をわきまえない愚かな心であります。この三毒が引き起こす無数の煩悩によって、私たちの心はなかなか安らぎません。しかし、庭の雑草を抜き美しく整えると、晴れやかな気持ちになるように、心の三毒も刈り取ることができます。そのように整えられた美しい心の状態が禅定であります。
安らかな心で般若心経を読誦・写経することも、智慧を深めていく修行になるのであります。
~夫れ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し~
お大師さまは「仏さまの教えは遥か彼方の遠いところにあるのではなく、私たちの心の中というとても近いところにあるのだ」と、申されています。
これを幸せで考えてみます。私たちは誰もが「幸せになりたい」と思っていて、その幸せを外に求めてしまうと、心を見つめること、自己を客観的に見ることができません。すると、ここに苦しみが生まれてしまいます。地位や名誉や財産があったとしても、それ自体幸せであるとも限りません。私たちの「心のありよう」で、幸と不幸の感じ方があるのではないでしょうか。この「心のありよう」を正しい方向へ導くための方法として、お大師さまは次のようにおっしゃっておられます。
~明暗他に非ざれば、信修すれば忽ちに證す~
「明らかな智慧も、暗く愚かな迷いも、他ではなく自分の心の中に存在するので、信心して修行すれば、忽ちに悟りを得ることができる」と申されておられます。
明(幸せ)と暗(不幸)は心の中に同時に存在しています。心の中の暗を除き、明るくする方法として、お大師さまは「信修」という言葉で表現されています。この言葉は、国語辞典にも載っていないお大師さまの造語とされています。信心して修行するというのは、私たちにとって、常に感謝する気持ちをもつことであり、修行するとは懺悔することではなかろうかと思います。感謝と懺悔の気持ちを忘れず持ち続けることで暗を除き明なる幸せな世界、仏さまの世界に到れるのであります。