般若心経秘鍵に学ぶ~①~

 『般若心経』ほど一般によく知られ、お唱(とな)えされている経典はございません。書店の宗教コーナーには必ずその解説書(かいせつしょ)の類(たぐい)を見かけます。解説書は現代に限ったことではなく、古来より、多くの学僧(がくそう)が研究してきました。お大師さまの晩年(ばんねん)の著作(ちょさく)である『般若心経秘鍵』は代表的な解説書であります。

 平成三十年は、大覚寺ご始祖嵯峨天皇さまが国家の安寧(あんねい)を祈願して般若心経を書写されてから千二百年の節目(ふしめ)を迎えるにあたり、般若心経を讃(たた)えたいと思います。大覚寺にとって般若心経は信仰の中心にあり、その根幹(こんかん)を解説したものが般若心経秘鍵の教えであります。今回より、「般若心経秘鍵に学ぶ」と題してお大師さまの御言葉に触(ふ)れていきたいと思います。

 

 ~文殊(もんじゅ)の利剣(りけん)は諸戯(しょけ)を絶(た)つ~

 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)さまは智慧(ちえ)を司る(つかさど)仏さまで、その智慧の象徴として右手に鋭利(えいり)な剣を持っておられます。この剣を振(ふる)って諸戯という無益(むえき)な議論を絶つのであります。私たちは真実が分からないにもかかわらず「ああでもない」「こうでもない」という議論を繰り返す時がありますが、そんな無益な議論を仏さまの智慧によって、正しい道に導くために一刀両断するのが文殊の利剣であります。

大覚寺の御影堂(みえいどう)(心経前(しんきょうぜん)殿(でん))の正面向って右側には秘(ひ)鍵(けん)大師(だいし)像が安置(あんち)されています。このお姿は、般若心経の真理を明かすお姿であります。このお大師像は同じく右手に剣をお持ちになっておられます。私たちの悩みを救うために文殊の利剣の形として示されて、他の大師像とは違うお姿であります。お大師さまご自身が文殊菩薩さまとなって般若心経の教えを解き明かして、私たちに正しい道を教え示してくださるご誓願(せいがん)のあらわれなのであります。

 

~覚母(かくも)の梵(ぼん)文(もん)は調御(ぢょうご)の師(し)なり~

覚母とは、あらゆる経典の母に喩(たと)えられる般若(はんにゃ)菩薩(ぼさつ)さまのことであります。般若菩薩さまも智慧を司る仏さまで、左手には、その智慧の象徴として梵篋(ぼんきょう)という梵文を納めた篋(はこ)を持っておられます。梵文とは梵語の経典のことであります。甚(じん)深(じん)なる仏さまの教えを記(しる)した経典は、収まりがつかない私たち衆生(しゅじょう)の心を調(ちょう)教師(きょうし)のように、調節(ちょうせつ)、制御(せいぎょ)してくださるものだとお大師さまは説かれています。私たちの心が落ち着かなかったり、不安であったりしても、般若心経を読誦(どくじゅ)し、お写経(しゃきょう)した後には不思議と安(やす)らかな気持ちになるのは、そういうことなのでありましょう。

 弘法大師①

~チクマンの真言(しんごん)を種子(しゅじ)と為(す)~

チクマンとは梵語で、密教においては梵字一文字によって仏さまを表示するのが種子であります。チクとは般若菩薩さま、マンとは文殊菩薩さまのことであります。また、種子は私たちの心中(しんちゅう)にある仏さまになりうる可能性の種(たね)をあらわしています。種を撒(ま)くと、やがて天地の恵みを受けて、成長して花開くように、私たちの心の種もきっといつかは美しい花を咲かせることでしょう。般若菩薩さまと文殊薩さまのお心を観(かん)じて、般若心経を読誦し、お写経することが大切であります。

 

~諸教(しょきょう)を含(がん)蔵(ぞう)せる陀羅尼(だらに)なり~

小さな子供が怪我(けが)をして泣いている時に、親が「痛いの、痛いの、とんで行け」というおまじないの呪文(じゅもん)のようなものを唱えて、怪我の部分を擦(さす)ってあげると子供が見事に泣き止むことがあります。子供にとっては、意味の分からない言葉であっても、親の心がきっと通じるのでしょう。「般若心経の意味が分からないのに読んでもいいのでしょうか」という質問をされることがありますが、それでもよいのであります。自分自身の心に願いをもって念じながら読誦し、お写経すると、般若心経の陀羅尼としての力が発揮されるのであります。たしかに、前提として意味を理解することは大切なことでありますが、般若心経に説かれる甚深なる仏さまの教えは、もうすでにそこに含まれているのであります。般若心経という陀羅尼を読誦し、お写経することで、悩みのもとである無明(むみょう)を破り、そこに安らぎの明(みょう)の世界が感じられるのであります。

嵯峨天皇①