『般若心経秘鍵』に学ぶ ⑥

 

文殊もんじゅ利剣りけん八不はっぷふるって、妄執もうじゅうしんつ~

お大師さまは「文殊菩薩の鋭利えいりけんは、この八つの否定の力を揮って、私たちの妄執(煩悩ぼんのう)の心を絶つ」と申されています。

文殊菩薩さまは、「三人れば文殊の智慧ちえ」ということわざがあるように、たくさんおられるほとけさまの中でも智慧第一の仏さまです。その文殊菩薩さまは、智慧を象徴的にあらわした経典きょうてんと剣をお持ちになっておられます。その智慧の剣には八不の力が備わっています。智慧とは、私たちが日常で使う知恵ではなく、温かな人間性をもって、分別することなく物事ものごとを正しく見ることです。八不とは般若心経の文中にある「不生ふしょう不滅ふめつ不垢ふく不浄ふじょう不増ふぞう不減ふげん」と同意どういである「不生ふしょう不滅ふめつ不常ふじょう不断ふだん不一ふいつ不異ふい不来ふらい不去ふこ」の八つの否定をいいます。この否定する力が前号でも取り上げました、般若心経の経文中きょうもんちゅうにある「くう」であります。「空」とは目に見えない、耳に聞こえない、そこには存在しないという否定でありますが、単なる否定ではなく、有無うむ等の相対関係にある事象じしょうを否定することです。例えば「増・減」をお金で考えますと、お金は増やそうとすると欲が出てきますし、お金が減ってくると不安が出てきます。増えることもなく、減ることもなければ欲や不安は出てこないはずです。そのようなとても静かで、おだやかな状態が「空」であります。

否定というと、自分の意見等を否定されて落ち込むというような悪いイメージがありますが、文殊菩薩さまがお持ちになられる剣の八不の力は、あらゆる事象の否定を通じてこころを高めていく効果があります。つまり、その剣を揮うことによって、私たちが平生へいぜい感じる「ギスギスする」「クヨクヨする」「イライラする」というようなとらわれの心を「そう(さきほどのお金の「増」)ではない、そう「減」ではない、こうなんだ」と否定を重ねることで「空」という執着しゅうちゃくしない心に導いてくれるのであります。

 

大慈三昧だいじさんまい与楽よらくもっしゅうとし、因果いんがしめしてかいとす~

お大師さまは「慈悲じひ深い弥勒菩薩みろくぼさつ三昧さんまい(悟りの境地きょうち)は、人々に楽を与え、因果の道理を示してくださる」と申されています。

弥勒菩薩さまという仏さまは、今は遠く離れた兜率天とそつてんという天界てんかいにおられ、五十六億七千万年後にこの世に降りてきて(下生げしょう)、あらゆる衆生しゅじょうを救ってくださるという、大いなる慈悲にあふれた未来の仏さまとして知られています。また、お大師さまご自身もご入定にゅうじょうになられる直前の著書ちょしょ御遺告ごゆいごう』において「自分が眼を閉じた後には、必ず弥勒菩薩さまのおられる兜率天に往生おうじょうする」としるされているように、お大師さまも弥勒菩薩さまのおられる兜率天で修行をされていて、現世げんせに生きる私たちはその救済きゅうさいを願うという信仰もあります。

慈悲とは抜苦与楽ばっくよらくを意味します。即ち、抜苦とは苦しみをやわらげる、与楽とは楽(幸せ)を与えてくださるということです。

因果の道理とは、仏教の根幹こんかんにある教えで、因縁いんねん(因とは直接的原因、縁とは間接的原因)があってしょうじる結果であります。例えば、私たちが普段何気なく食べるご飯の一粒ひとつぶ(因)でさえも、そのこめが作られるのは、太陽や水、育ててくださる農家の方々のさまざまなえんがあってのものです。そして、その縁によって生じる果、つまり、いねが太陽と水の力で光合成こうごうせいをすることで、また、農家の方々のご労苦があってこそ、私たちは結果として美味しいご飯をありがたくいただけるわけです。私たちは、そのような無数むすうの因果の道理の中で生きているのです。また、因果には善因楽果ぜんいんらっか悪因苦果あくいんくかの二種あります。善因楽果とは良い原因があれば結果として幸せがおとずれるということであり、悪因苦果とは悪い原因があれば結果として苦しみがあらわれるということです。

弥勒下生まで五十六億七千万年というと、太陽系の余命よめいとほぼ同じであり、途方とほうもない時間ではありますが、今に生きる私たちは、無数の因縁の道理の中で生かされていることに感謝し、弥勒菩薩さまとお大師さまの慈悲深い救済にあずかるべく、信心して精進することで善因を重ねて参りたいものです。楽果としての幸せな日々を得て、楽しむことができるようにねがって・・・。