勅使門のおはなし

勅使門

大覚寺の心経前殿(御影堂)の南側正面に、石舞台をはさんで勅使門がございます。江戸時代・嘉永年間の再建で門は四脚門とし、屋根は切妻造り、正面および背面に軒唐破風を付け全体は素木造りだが唐破風の部分のみ漆を塗り、金鍍金の飾り装飾を施している大きな菊の御紋をいただいたすばらしい門でございます。今回は、この勅使門にまつわるおはなしをご披露申し上げます。

この勅使門は、天皇陛下が行幸の場合あるいは陛下のお使いの方がお越しの時のみ開門いたします。そのような格式高い特別な門なのですが、大覚寺では別名「おなごりの門」とも呼んでおります。その呼び名の由来は、江戸時代後期、大覚寺最後の宮門跡(住職)となられた有栖川宮慈性入道親王と深い関係がございます。尚、有栖川宮家とは四親王家(伏見・桂・有栖川・閑院)の一つで、寛永2年(1625)に後陽成天皇の第七皇子である好仁親王が高松宮と称して創立されたのにはじまります。寛文7年(1667)に後西天皇の第二皇子である幸仁親王が継がれ、同12年、有栖川宮と改称され、以後、十代三百余年におよびました。

世は尊王攘夷が叫ばれる混迷の時代、あろうことか有栖川宮慈性門主は幕府から勤皇討幕の疑いをかけられ、大覚寺は宗祖を弘法大師と仰ぐ真言宗の寺院であるにもかかわらず、宗派の違う天台宗の徳川家菩提寺、江戸の輪王寺の住職を兼務するよう命が下りました。慈性門主は嵯峨御所大覚寺をこよなく愛され、この地を離れたくない想いを強く持たれておりました。しかしながら、命に背くこともできずいよいよ江戸に出発の時、勅使門より出られましたが何度も何度も振り返られ、大覚寺に未練を残されたということから「おなごりの門」と呼ばれるようになりました。天台座主として輪王寺で五年過ごされた間も大覚寺の伽藍復興の念願を訴えられ、輪王寺を弟の公現法親王に譲るなど着々と大覚寺への帰山に備えられました。幕府も熱意にほだされたか隠居のうえでの帰山を認めましたが、出発寸前の慶応3年(1867)11月24日、突如、江戸で残念ながらお亡くなりになられました。行年55歳。茶毒によるものだと噂されています。今でも輪王寺にある有栖川宮慈性入道親王のお墓は、京都大覚寺の方角を向いているということです。

本当に嵯峨御所大覚寺を愛されたご門跡だったのですね。今でも大覚寺には、慈性入道親王のご遺愛品が多数のこされております。

南無大師遍照金剛

※参考文献 村岡 空著『嵯峨大覚寺』朱鷺書房