『般若心経秘鍵』に学ぶ ⑪

 

真言しんごん不思議ふしぎなり 観誦かんじゅすれば無明むみょうのぞ
   一字いちじに千理をふくみ 即身そくしん法如ほうにょしょうす~

前号では、お大師さまのご教示される真言について触れましたが、上に記していますのはその真言のご利益りやくについてのお大師さまの御言葉であります。

「真実の言葉である真言は不思議な力がある。仏さまの世界を観察し真言を読誦どくじゅすれば、その力によってわたしたちの迷いの根源こんげんたる無明むみょうを除くことができる。真言の一つ一つの文字には無限の道理が含まれており、この身このまま仏さまになる道を証すのである。」

聞き慣れない言葉として「観誦」という仏教用語があります。「観誦」とは「かんさつどくじゅ」の略であります。但し、私たちが日頃使うような観察かんさつとは少し意味が違います。一般的には、小学校の夏休みの宿題にある朝顔あさがおの観察のように、対象の実態を知るために注意深く見ること、または、その変化の経過を記録することであります。それに対し仏教でいいます「観察」とは、物事ものごとを心に思い浮かべ、細かく明らかに、そして正しく熟思じゅくし熟考じゅっこうすることを意味します。つまり、それは心の観察であり、自分自身の心を正しくありのままに見つめるということであります。私たちの心には、仏さまの安らかな境地きょうちに成り得る種を誰もが宿やどしています。それは美しく咲くはすの花の種がどろのなかにあるのと同じです。種が泥の中に埋もれているがごとく、私たちの心もまた深く暗い煩悩ぼんのうおおわれています。しかし、正しく自分自身を見つめたとき、その煩悩は取り除かれ心のなかの仏さまの種に気付き、それがやがて芽生めばえ、仏さまの世界を観念することができるのではないでしょうか。そのような気持ちをもって真言をじゅすることが、お大師さまがここで申されている「観誦」ということであります。

また、観誦することで「無明」が除かれると説かれています。無明とは、これもまた仏教用語で、私たちの煩悩の根源こんげんを意味します。文字通り、明かりが無い心の状態で、やみということができます。私たちが迷い苦しむさまは、闇夜を照らす月の明かり、ほしの光りすらない真っ暗闇の中で、進むべき方向すら全く見えず、一歩たりとも踏み出せないでいるあわれな状態にたとえられます。その時、一筋の光明となって進むべき道を照らし出してくれるのが、「観誦」によって得られる仏さまの「法如」、すなわちさとりの光なのです。

釈迦しゃかさまは、私たちが決して逃れることができない苦しみを、四苦しくとお説きになられています。しょうろうびょうの苦しみです。これらは、私たちが生きているかぎり誰もが味わう苦しみです。他にも生きていれば色々な苦しみがあることでしょう。愛する人との別れの苦しみ、欲しいものがあっても手に入らない苦しみ、会いたくない人でも会わなければならない苦しみ、一見いっけん幸せと感じるような生活の日々を送っていても、貪欲どんよくな心で物事ものごと執着しゅうちゃくしてしまうことで味わう苦しみなど様々にあります。

そのようにそれぞれが何かしらの苦しみのなかにあって、人はこころゆたかに生きたいと願います。神仏しんぶつ御前みまえにお参りしますのはその表われでありましょう。ことに、仏さまの御前では真言をお唱えいたします。その時、不思議な力を有する真言を「観誦」することによって「無明」を除き、このこのまま仏さまのような安らかな気持ちを体得たいとくできるのですよと、お大師さまは説かれています。