『般若心経秘鍵』に学ぶ ⑤
~色空本より不二なり~
般若心経の経文の中には、「色」や「空」という文字が繰り返し出て来ます。「色」とは目に見えるもの、「空」とは目に見えないものを言います。
「色」と「空」を時計で例えてみます。私たちが時間を知るときは、当たり前のようですが時計を見ます。しかし、時計のない時代は日の出とともに起きて、日の入りとともに寝るという生活でありました。そのような目に見えない時間を、目に見えるものとして発明されたのが時計であります。時計だけではありません。何気なく座っている椅子も最初は目に見えるものとして存在しなかったはずです。椅子というものの形や大きさや色を心に描き、想像してから開発されるまではそこになかったものです。言葉も同じです。見えない、聞こえない心の中の気持ちを文字や声にしています。
つまり「色」とは存在(目に見えるもの)であり、「空」とは不在(目に見えないもの)ということです。お大師さまは、「色」と「空」は本来一つであると申されています。現代に生きる私たちは見えないものは無いものだと考え、見えているものは元々無いものだとは考えません。それ故に、ものの大切さを忘れがちになるのではないでしょうか。お大師さまが申されるように、「色」と「空」それが同じものだと考えれば、見えるもののありがたさや、見えないものも大切にしなければならないということが分かってくるのでしょう。
~事理元より来同なり~
お大師さまは、先の句の続きで「事と理も元来同じである」と申されています。「事」とは事象や現象のこと、「理」とは絶対不変の真理のことをいいます。
お釈迦さまは二千五百年前、三十五歳のときにお悟りを開かれました。何を悟られたかたというと、「理」ということになります。そして、お悟りを開かれてから八十歳の入滅をお迎えになられるまでの四十五年間は、衆生への説法教化の旅をされ、たくさんの人々を苦しみの闇からお救いになられました。そのお救いになられた言動や活動の実践行為こそが「事」ということになります。また、お釈迦さまが入滅された後には、たくさんのお弟子さんが集まり、その教えを書き記した経典が誕生します。経典はお釈迦さまの教えでありますので「理」ということになります。今、日本で最も身近な経典となった般若心経を読誦写経するということも「事」という実践行為をしているということに他なりません。
お大師さまは、その「事」と「理」も「色」と「空」と同様で、元来同じで一つであると申されています。
~無礙に三種を融す、金水の喩えその宗なり~
この句では、先の「事」と「理」の関係について、「理と理・事と理・事と事の三種に組み替えても、それらはさえぎることなく、融け合っている。たとえるならば、金と金から造られた獅子、水と水から生まれる波の関係のようなものである」とお大師さまは申されています。
現実的に身近なところで考えてみますと、「事」と「理」という仏教用語が組み合わさった《理事》という言葉があります。各諸団体が活動をするには理事者が集まり理事会を開催して、方針を決めて、その会の円滑な運営に努めます。理事者はその団体の大綱を把握して、現実の具体的な処理にあたる人で、理事会では、団体のなすべき方向性について話し合いをします。仮にそれぞれの理事者の心に描く意見を「理」とし、意見を交わした結果、決められた方針の元に行う具体的な活動を「事」とします。そのように考えたとき、もし理事会において理事者が互いの意見を否定し合えば、意見はまとまらず方針は決められないでしょう。それぞれの意見がまとまって初めて良い道筋ができ、方針も決まります。これが「理」と「理」の融合といえます。また、そのように融合した「理」はその団体の方針ということになります。団体の理事者を含めた会員は、「理」という方針の元、「事」という活動を行います。しかし、方針に反して会員が違う活動をしてしまうと上手くはいかないはずです。「事」である活動と「理」である方針の歯車が合ってこそ団体としての活動がスムーズに進むものです。これが「事」と「理」の融合であります。さらに、「事」という活動をしている会員どうしがケンカをすれば揉めれば、これもまた上手くはいかないでしょう。全ての会員が一丸となってこそ、円滑な活動ができるのです。これが「事」と「事」の融合であります。
お大師さまは、そのように「理」と「理」、「事」と「理」、「事」と「事」の三種が、さえぎることなく融け合うように、実践・修行すべきであると捉え、その実践者である普賢菩薩さまのお悟りの境地をあらわしたのが心経の「色」と「空」の一節だと観たのです。私たちも般若心経を読誦・写経するとき、この三種が融け合った自在で安らかな普賢菩薩さまの境地を目指して、日々精進したいものです。