「新嵯峨野物語」第三十三話(最終話)紹介

「新嵯峨野物語」第三十三話が、月刊「嵯峨」に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

 

第三十三話

「花とよみがえりの寺(下)」

 

 大覚寺第四世門跡定好、第五世門跡真範は平安京には見向きもせずに、興福寺の塔頭である一乗院に籠ったまま平城京中心の活動を行うのですが、彼らにとって頼りとしていた春日社・興福寺周辺には、時の流れと共に刻々と変化が訪れていて、とても安閑とはしていられない状況にあったのです。その一つの問題は、古来彼らの支配下にあった同じ平城京の室生寺には大分前から天台宗や真言宗が参入してきていて、その主導権を巡って激しい確執が生まれていたのです。

 

続きは月刊「嵯峨」12月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第三十二話紹介

「新嵯峨野物語」第三十二話が、月刊「嵯峨」に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

 

第三十二話 「花とよみがえりの寺(上)」  

貞観十八年(八七六)二月二十五日、嵯峨天皇の仙洞御所(上皇になられた後の御所)であった嵯峨院は、政庁によって認められ「定額寺」の大覚寺として告知されました。それから三年後に恒寂入道親王は五十二歳の時に入山されて、開山門跡となられました。いよいよこれからが大覚寺の正式な歴史の始まりになります。親王は七、八歳の頃から才知に富み、なかなかの風流人で芸術家でもあったのですが、俗世との縁を断たれた今、最初に行われた作業は丈六(釈迦が一丈六尺あったとされているので、その大きさに造られた仏像。ただし原則としては結跏趺坐に造るので八尺から九尺ぐらい)の阿弥陀像を造り始めることでした。

 

続きは月刊「嵯峨」11月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第三十一話紹介

「新嵯峨野物語」第三十一話が、月刊「嵯峨」に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

 

第三十一話「王朝の終焉と復活(下)」

 祖霊仁明天皇の順子太皇太后は、女性として最高の栄誉である太皇太后という地位を得たので、そのお礼をするために、平安京西の小塩山東の麓にある大原野神社へ向かうことになったのですが、一緒に参詣しないかと高子姫を誘ってきたのです。

 祖霊桓武天皇が長岡京へ遷都するときに、藤原氏出身の皇后乙牟漏のために、平城の春日神社から分霊して勧請した神社なのですが、嘉祥三年(八五〇)に文徳天皇が即位すると、かつて左大臣の藤原冬嗣が念願していた神殿を建設して、朝廷が伊勢神宮へ送り出す斎王に対して、藤原氏の氏神に奉仕するための斎女を置くようにもなりました。

藤原の子女たちの間ではここへ参詣して祈願すると願いがかなうというので、大変評判になっていた所だったのですが、もしその願い通りになったときには、必ずお礼にやってくることになっていました。

 

 

続きは月刊「嵯峨」10月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第三十話紹介

「新嵯峨野物語」第三十話が、月刊「嵯峨」9月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

 

 

第三十話「王朝の終焉と復活(上)」

文徳天皇は即位した後、皇太子問題を早急に解決したかったのですが、右大臣藤原良房の娘明子が第四皇子の惟仁親王を誕生させたのがきっかけで、第一皇子の惟喬親王を擁立することに反対されてしまったために、嘉祥三年(八五〇)も数カ月が過ぎているというのに、依然として日嗣皇子は指名できないでいました。

父の祖霊仁明天皇も蒲柳の質といわれていた人であったために、公卿たちとの交遊を楽しむこともなさいませんでしたので、これまでの慣習に慣れた者たちにとっては、大変付き合いにくい方でした。

それだけに今上は誠実に為政に取り組もうとする姿勢を示していらっしゃったのですが、そんなところへ、右大臣はまだ生後九カ月にしかならない惟仁親王を皇太子にするべきだと迫ってくるのです。

朝廷とその周辺には、俄かに皇太子問題が話題になり始めてしまいました。

 

続きは月刊「嵯峨」9月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第二十九話紹介

「新嵯峨野物語」第二十九話が、月刊「嵯峨」8月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

 

 

第二十九話「巡り合う二人の廃太子」

 承和九年(八四二)八月、仁明帝が漏らした新たな皇太子の名があまりにも意外であったために、その情報はたちまち公卿の間に広がり、駆け付けてきたのは大納言藤原良房でした。

 「主上。なぜ東宮は常康親王なのでしょうか。その理由をお聞かせください」

 誰もが今上と良房の妹である順子との間に誕生している、第一皇子の道康親王が指名されると考えていたのに、今上が指名したのは良房の政敵といわれる紀名虎の娘で、更衣の種子を母とする親王なのです。我慢できるはずがありません。ところが今上は特に狼狽する様子もなく平然とお答えになられました。

 「長幼の序に従うことは、大納言のいう政治の改革に沿わないことになるのではないか」

 今上の精いっぱいの皮肉でした。

 

 

続きは月刊「嵯峨」8月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第二十八話紹介

「新嵯峨野物語」第二十八話が、月刊「嵯峨」7月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十八話「さらば、夢追い人たち」

 承和八年(八四一)ともなると、仁明帝もすでに三十歳を越えていらっしゃるのですが、治国治政ということでは、次々起こる諸問題を処理していくには未熟な点が多すぎます。かつて困難を乗り越えるのに、有能な太政官を上手に使われた嵯峨太上天皇のように、人心の把握、統率ということで、卓越した力を発揮するようなことはできません。そんな中で時の経過と共に目立った存在になってきていた藤原氏は、次第に官衙での主導権を握るようになってきていたのです。政庁の微妙な変化に敏感な官人たちの中には、皇族を差し置いて何かにつけて指図をし始めてきている藤原氏には、徐々に不満を抱く者が増えつつありました。

続きは月刊「嵯峨」7月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第二十七話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十七話が、月刊「嵯峨」6月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十七話「苦悩する放縦不拘」 

 承和七年(八四〇)六月を迎えたある日のことです。右馬寮の広場で馬の調教をしていた在原業平へ、突然声を掛けてきた者がいました。振り向くとそこには、かなり高齢と思われる見慣れない老人が立っているのですが、その凜とした姿には、厳しい人生が刻み込まれているように思えます。

 「在原朝臣業平。話がある」

 不意の訪問客に茫然としている業平に、老人はぶっきら棒に言って表へ誘い出していきます。しかし出自の判らない訪問者でしたから、業平はどうしたらいいのかと戸惑っていると、それを察した老人は、

 「但馬権守橘逸勢。折り入って話がある」

 さっさと右馬寮から離れていきます。

続きは月刊「嵯峨」6月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第二十六話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十六話が、月刊「嵯峨」5月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十六話「時代を生きる野狂」

 承和五年(八三八)の秋も深くなった十一月二十七日のことです。宮中の紫宸殿では皇太子恒貞親王(淳和太上天皇の第二皇子)の元服が執り行われ、仁明帝からは次のような発表がありました。「皇太子恒貞は立派な風姿を持ち、生まれつき性格が穏やかで宮城内で育ち、皇太子として宗廟(祖先のみたまや)の守りについている。幼稚を離れ成人となったので、良き日柄を選び初冠(成人式)をすることになった。恒貞は君臣・父子・兄弟・朋友の四礼を身に付けて元服し、優れた徳をますます明らかにし、先代を受け継ぎいよいよ栄えることになろう」(続日本後紀)

続きは月刊「嵯峨」5月号にて掲載しております。

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睦月ムンクさま 画集「睦月ムンク画集 結-Musubi-」発売

『新嵯峨野物語』のタイトルイラスト及び挿絵を描かれている睦月ムンクさまの画集「睦月ムンク画集 結-Musubi-」が発売されております。

『新嵯峨野物語』のタイトルイラストも収録されております。是非ご覧くださいませ。

 

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「新嵯峨野物語」第二十五話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十五話が、月刊「嵯峨」4月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十五話 「忍び寄る乱世の跫音」

嵯峨太上天皇との親交があって、朝廷との関わりも深かった空海大僧都が遷化されて、臣民の身近な心の拠りどころが失われてしまった上に、時は容赦なく時代の息遣いも姿も変えていきます。承和二年(八三五)四月のことです。仁明帝は新たな時代の変化によるさまざまな変化を考えられて、次のようなことを発表致しました。「『易経』に上を損じて下を益すれば民が喜ぶとあり、安らかで倹しくすることが礼に適っている。王者はこの原則に従うことで、古今一致している。朕は才能がなく愚かであるが良き在り方に従い斉えようと思う。おごりをやめ倹約に努めたいというのは、早くからの朕の気持ちである。今いる朕の子には親王号を避けて、朝臣姓を与えることにする。嵯峨太上天皇は限りない御恩の上にさらに恩沢を加え、子を一様に源氏とし世々別姓を設けず本流も分派も同様とした」(続日本後紀)朝廷の内にもかなり源氏を名乗る者が入り、皇族の援護ができるようになっていましたから、今上は嵯峨太上天皇の為政を受け継ぐことを強調して、公卿たちに不安感を抱かせないようにしていらっしゃいます。

続きは月刊「嵯峨」4月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第二十四話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十四話が、月刊「嵯峨」3月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十四話 「時よ、緩やかに歩め」

天長十年(八三三)の七月半ばを過ぎるころのことです。秋になると洪水による被害や、大風の被害が出るので、仁明帝は諸国の神に奉幣して災害を予防するようにという指示をしていらっしゃいました。ところがそうした努力を無にするように、越後国からこんな情報がもたらされるのです。「去年は疫病が流行し、農作は天候が悪く、寒気の到来が早かったため穀物は稔らず、今飢疫が相続きたくさんの者が死亡しています。この凶年のための賑給(朝廷の恩恵を示すために窮民を救うこと)を行っても、百姓は乏しい状態ですので、米の売買を認めていただき、困っている民の助けとしたいと思います」(続日本後紀)今も干天が続いていて、一向に雨が降る気配がありません。朝廷にはそれを解消したくても、神仏の力にすがるしか手立てがないのです。

続きは月刊「嵯峨」3月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第二十三話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十三話が、月刊「嵯峨」2月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十三話 「運命の扉開く時」

天長七年(八三〇)も半ばを過ぎるころのことです。前年から天候が不安定なことが多く、淳和帝はその影響を受ける事態に耐えながら、何とか百姓の苦難を和らげようとして、神泉苑において五穀豊穣の相撲を行わせました。しかしその最中の申の刻(午後四時ごろ)に、雷雨があったかと思うと、酉の刻(午後六時ごろ)には内裏西北の女官の使う部屋に落雷があって、左右近衛が騎乗して駆け付けて神火を消し止めなくてはなりませんでした。今上は戌の刻(午後八時ごろ)にやっと雷鳴は止んで宮中へ戻られるのですが、天候は安定しないばかりか地震まで連続するようになるのです。

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「新嵯峨野物語」第二十二話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十二話が、月刊「嵯峨」1月号に掲載されました。

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第二十二話 「太上天皇、菊ヶ島幻想」

天長四年(八二七)正月のことです。
淳和帝は体調が優れず朝賀の儀を取りやめてしまわれましたが、陰陽寮が占ってみたところ、稲荷山の祟りだというのです。空海が東寺の塔を建立する時に、稲荷山の木を切らせたことが原因だと言います。今上は直ちに大中臣雄良を送って、それまで秦氏の私社であった稲荷神に従五位下を与え、神として遇することにすると同時に、実りを約束するといわれる、荼吉尼天を祀る稲荷神社を東寺の守護神として迎えたのです(類聚国史)。そしてさらに朝廷は、怨霊の原点となりやすい霊を祀っている、飛鳥の川原寺などに経を捧げたりして二月を迎えました。宮中での騒ぎの原因になっていた真名井内親王のことも、ようやく口に出す者もなくなっていたということもありましたので、今上は正子内親王を正式に皇后と決めて落ち着かれました。

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「新嵯峨野物語」第二十一話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十一話が、月刊「嵯峨」12月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十一話 「家父長、思い溢れて」

天長二年(八二五)十月のことです。嵯峨太上天皇は日嗣皇子の時代から仕えてくれた重臣の藤原冬嗣を連れて、思い出多い交野へ向かわれました。これまで旱魃に悩まされながら、貧民救済を心掛けて、極力権力者たちが勝手な活動をすることを抑えてきた右大臣藤原園人でしたが、このところその政策の効果が思うようにあらわれなくなっていました。そんな時に、それぞれの公卿たちが行う経済活動を援護することで、町を潤し活性化していけば貧民の救済にも役立つという、右大臣とは真逆の施策を申し出てきたのが冬嗣でした。

続きは月刊「嵯峨」12月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第二十話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十話が、月刊「嵯峨」11月号に掲載されました。

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第二十話 「法力合戦の裏で」

降り続く雪の中で弘仁十五年(八二四)改め天長元年の正月を迎えることになりました。早速ですが親交を重ねている渤海国からは、国家間の儀礼として使いを派遣してきましたので、淳和帝は大極殿にお出でになられて、使節をはじめ朝廷の高官たちの祝福を受けられ、紫宸殿では宴が催されて年号も天長とされたのです。いよいよ先帝の時代から、新たな治世に受け継がれたのだという、清新な気分が漂うなかでの年明けでした。それでも今上は使節に対して、「使人らは荒波を越え寒風を忘れて到来した。これまでの慣例に従い接遇しようと思うのであるが、年来諸国が稔らず百姓も疲弊している上に疾疫も発生した。これからようやく農時に入ろうとしており、送迎の百姓が苦しむことになるので、今回は京へ召さないことにした」(日本後紀)穏やかな所へ移ってもらって、いい風が吹くのを待って帰るようにと心遣いを表されます。しかし本はといえば、百姓たちが疲れ切っていることに対しての配慮の結果でした。民との苦しみを共有するという、嵯峨太上天皇の思いに共感する今上の気持ちがよく表れています。

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「新嵯峨野物語」第十九話紹介

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「新嵯峨野物語」第十九話が、月刊「嵯峨」10月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第十九話 「謎めく尚闈司」

弘仁十四年(八二三)九月のことです。淳和帝に朝廷の運営を託して、治国という重責から解放された嵯峨太上天皇は、平安宮からそれほど遠くはない冷然院へ移られて、自由な日常を楽しまれるようになられました。そんなある日のことです。藤原三守を通して、久しぶりに嵯峨院へ行幸するということを朝廷に連絡させたのです。院司からの報告でそれを知ることになった今上(当代の天皇)は、直ちに御輿の用意と警護の編成をするという返事をされました。ところが太上天皇からは、すぐにそれを固辞するという連絡をしてこられたのです。朝廷は太上天皇の身の上に危険なことが起こってはいけないと考えて、申し入れを受け入れてくれるように説得してくるのですが、それでもまったくそれを受け入れないまま、太上天皇は院の官人、女嬬たちに行き先を告げると、前駆、後駆などの警護もなしで愛馬に乗ると、冷然院から出ていかれるのでした。

続きは月刊「嵯峨」10月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第十八話紹介

1606_イラスト題字付

「新嵯峨野物語」第十八話が、月刊「嵯峨」9月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第十八話 「一帝二太上天皇誕生」

弘仁十四年(八二三)四月には、皇統を譲位された淳和帝は即位に向けて動き出していましたが、譲位した嵯峨上皇も慌ただしく動いていらっしゃいました。かつて退位された平城天皇が落ち着き先を失ってしまったためにあちこち動き回り、やがて旧都の平城宮へ戻ることになるのですが、結局薬子の変などという騒乱を引き起こすきっかけとなってしまいました。そんな苦い体験をしたことのある嵯峨は、速やかに宮中を出て冷然院へ移られ、院司には安倍安仁を指名して管理を任せると、運び込まれたおびただしい貴重な典籍と共に新たな暮らしを始められたのでした。ところがそれで、すっかり落ち着いた暮らしが約束されたわけではありません。これまで関わりのあった者たちがご機嫌伺いに現れるのです。それがあまり続くので、その応接に忙しない時を過ごさざるを得ない状態でした。

続きは月刊「嵯峨」9月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第十七話紹介

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「新嵯峨野物語」第十七話が、月刊「嵯峨」8月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第十七話 「思いを秘めた紫野行幸」

弘仁十三年(八二二)の正月を迎えましたが、朝廷はひき続き厳しい現実と向き合わなくてはなりませんでした。降雨がなく、厳しい日照りが続くという状態なのです。夏を迎えると稲苗が枯れてしまうというのに、田に水を引くことも困難になってしまいますから、その問題を解決するために、貧民を先にして富民を後にさせるというようなことまで決めなくてはならなくなっていたのです。「群神に急ぎ奉幣したのだが、少しも反応しない。『詩経』(五経の一つで中国最古の詩集)にも大変な旱魃が起こってしまい、心配で燻るような気持ちだと書いてある通りだ。朕と皇后は、使用する物を削減しようと思う」(日本後紀)自らの日常を引き締めながら、貧しい者に物を与えて救済したり、疫病が発生した所には、使者を送って救済したりしていましたが、嵯峨帝の意向に沿って公卿たちからも、しばらく俸禄を減じたいという申し入れがありました。政治を司る為政者たちは、みな協力して困難と闘おうとしていたのです。

続きは月刊「嵯峨」8月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第十六話紹介

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「新嵯峨野物語」第十六話が、月刊「嵯峨」7月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第十六話 「未曾有の危機に学ぶ」

平城時代では禁止されていたことなのですが、旱魃による被害の広がりということについて、嵯峨帝は即位以来富裕な農民の持つ稲を利用して飢えた者たちに貸し与え、機会がきたら返させるということを行って、何とか危機を乗り越えてこられましたが、先年のように飢饉と疫病が重なってしまうと、飢民の救済と税の免除を行ってきたために、国の財は減少してしまって、帝をはじめ為政者たちは追い詰められていたのです。朝廷は畿内の富豪の蓄積されている稲を調べ上げ、それを困窮する者に貸し出して、秋の収穫時に返済させるようにしたり、そうした朝廷の要望に応えて協力してくれた富豪たちには位を与えるというようなことで報いて、何とか危機を乗り越えてきたのでした。

続きは月刊「嵯峨」7月号にて掲載しております。

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記念出版事業について

「新嵯峨野物語」の好評連載中

 記念出版事業の一つとして、月刊『嵯峨』にて好評連載中の「新嵯峨野物語」は、ついに主人公の嵯峨天皇さまが本格的に登場。これに伴いまして、サブタイトルも「嵯峨王朝史」と改まり、物語も佳境へと突入してまいります。京都嵯峨芸術大学の客員教授であられる藤川圭介先生による「新嵯峨野物語」を引き続きお楽しみください。

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