「新嵯峨野物語」第十五話紹介

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「新嵯峨野物語」第十五話が、月刊「嵯峨」6月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第十五話 「戊戌の年、天下大疫す」

弘仁八年(八一七)五月のことです。
いさかいのない治政を目指していらっしゃる嵯峨帝にとって、あまりにも想像を超えた不気味な事件が発生しました。舞姫に音楽を教習する内教坊という所に務める女孺(下働きの女役人)であった長野女王と、出雲家刀自女という同室に住む二人についてなのですが、女王の知り合いであった船延福女という者が、突然女王の部屋に寄宿することになったのです。ところがなぜか女王は、延福女の持っているわずかな衣類を見て盗もうと思いたって、その夜彼女が眠ったのを見計らって、家刀自女と謀って紐で首を絞めて殺した上に、顔皮を剝いで宮中の外へ棄てたというのです。実におぞましい事件でした。

続きは月刊「嵯峨」6月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第十四話紹介

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「新嵯峨野物語」第十四話が、月刊「嵯峨」5月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第十四話 「それぞれの道程」
民の暮らしが少しでも楽にできないか、いろいろと工夫するように指示をされたり、朝廷を悩ませてきた蝦夷を俘囚(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として連れてきて、各国の民と共に暮らせるようにできないかと、いろいろな面で廷臣たちと腐心していらっしゃる嵯峨帝です。それではさぞかし堅苦しい日常をお過ごしなのではないかと思われがちなのですが、実際は決してそんな日ばかりではありませんでした。朝議から離れたところでは、伸び伸びとして気楽に過ごされることもあったのです。

続きは月刊「嵯峨」5月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第十三話紹介

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「新嵯峨野物語」第十三話が、月刊「嵯峨」4月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第十三話「嵯峨源氏始まる」  弘仁四年(八一三)夏前のことですが、嵯峨帝は異国からのさまざまな接触を受けることになり、何が起こるか判らないという心配がありました。そのために、まず朝廷内の結束を確認しておかなくてはならないと考えられて、親しい関係を保ってきている近衛大将藤原冬嗣の閑院という名を持つ邸宅を訪問されたり、続いて弟である皇太子の大伴親王の屋敷である南池院(平安京右京四条に所有していた)へ、右大臣藤原園人など重臣たちを伴って行幸されたりすることもありました。  園人は苑池を巡りながら、こんな歌を詠みます。  今日の日の 池のほとりにほととぎす  平は千代と鳴くは聴きつや  (今日、池の辺でほととぎすが、平安京は千代に栄えるよと鳴くのを、お聴きになりましたでしょうか)  それに対して帝はこんな歌を返されました。  ほととぎす 鳴く声聴けば歌主と  共に千代にと我も聴きたり  (ほととぎすが鳴くのを、和歌に詠んだ園人と共に、朕も平安京が千代に栄えると聴いた)  雅楽寮の楽人が音楽を奏するなかで、文人たちに詩を作らせたりしましたが、園人は喜びと感謝の気持ちを表そうと舞踏を行ったといいます。 

続きは月刊「嵯峨」4月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第十二話紹介

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「新嵯峨野物語」第十二話が、月刊「嵯峨」3月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

弘仁二年(八一一)正月です。

まだ政変があってからそれほど時も経っていないということもありましたから、治国ということではいろいろと目が行き届かないこともありました。そんな嵯峨帝に、早速のしかかってきたのは陸奥との紛争でした。祖霊光仁、桓武両天皇の時代から朝廷を苦しめ続けていた蝦夷との抗争は、武将坂上田村麻呂の努力で鎮圧されてから、長いこと静かになっていたはずだったのですが、また息を吹き返してきているというのです。

 

続きは月刊「嵯峨」3月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第十一話紹介

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「新嵯峨野物語」第十一話が、月刊「嵯峨」2月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

弘仁元年(八一〇)十月、薬子の変の終結を知った空海は、高雄山寺からわざわざ宮中へやってきて、嵯峨院へ「五覚院」という帝の持仏堂を建立したいという請願をいたしました。帝の要請もあった変の鎮静化に貢献した空海の頼みですから、反対はありません。しかもそれが帝の安泰であることを祈願し、鎮護国家を願うためのものであるというのでなおさらのことです。申し出は直ちに許可されると同時に、空海は南都の東大寺の別当にも任じられました。

 

続きは月刊「嵯峨」2月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第十話紹介

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「新嵯峨野物語」第十話が、月刊「嵯峨」1月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

平城天皇(現上皇)から譲位されて即位された若い帝は、何かと気ぜわしい日々に追われているうちに、体調を崩すことが多くなっていらっしゃいました。大同五年(八一〇)七月になったころのことです。嵯峨帝はまたまた体調を狂わせてしまったのです。朝廷は古来諸国の国魂を集めて祀っているといわれる、石上神宮へ使いの者を送って病の平癒を祈願させたり、百五十人という僧に七日間薬師法というものを行わせたりさせました。

帝から気力が失われて、朝廷に不安が広がっていた九月六日のことです。突然上皇が平安京を廃して、都を旧平城京へ移すと宣言されたのです。つまり都をもう一度元の都に戻す還都をするというのです。

 

続きは月刊「嵯峨」1月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第九話紹介

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「新嵯峨野物語」第九話が、月刊「嵯峨」12月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

平城天皇の突然の譲位によって、皇位に就くことになられた嵯峨帝は、まだ二十三歳という若さでもありましたが、現実とどう向き合うかということについて、朝廷を率いる者としての姿勢を明らかにしなくてはならないという問題がありました。日照りが続くことについては帝の願いでどうにかなるという問題ではありませんから、それで苦しむ農民たちを、少しでも救える手立てを考えるしかありません。まだ朝廷を率いたばかりの帝は、当面配慮しなくてはならない問題も抱えていらっしゃいました。内裏を明け渡して、新たな転居の場が見つかるまで、宮中の殿舎で暮らすことになられた上皇への気遣いということです。
帝はかつて上皇が親しくお付き合いしていらっしゃった、法相宗の学僧玄賓法師が、今は伯耆国(鳥取県)で隠遁生活をしているというので、次のような手紙を書かれました。

 

続きは月刊「嵯峨」12月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第八話紹介

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「新嵯峨野物語」第八話が、月刊「嵯峨」11月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

まったく予測しなかった伊予親王の謀反という事件に遭遇して、震撼とさせられてしまった平城天皇でしたが、ようやくその余波も鎮まってほっとしていらっしゃいました。ところが先年から起こっていた飢饉と、そのために発生する死者の数が増えるために、それだけ疫病が広がるという難問を抱えていたのです。大同三年(八〇八)の年明けは、帝にとって大変気が重くなる日々になってしまいました。

即位からやっと二年が過ぎたところでしたが、先帝の為政を理想として追っていこうとするために、現実主義的な生き方をしようとする公卿とは、しっくりといかないところがあったのです。現実には伊予事件が右大臣藤原内麻呂の力によって事なきを得たために、藤原北家の者たちには、無視できないものが生まれてきていました。

 

続きは月刊「嵯峨」11月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」サブタイトル変更

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戊戌記念の一環として藤川桂介先生による小説『新嵯峨野物語』が月刊『嵯峨』において連載されてから、すでに8話を数えます。ここで舞台は嵯峨天皇の御代となりました。そこで、サブタイトルを「悲劇の皇太子たち」から「嵯峨王朝史」と改め、お話も次第に壮大な平安絵巻の時代へと突き進んでまいります。引き続き『新嵯峨野物語』をお楽しみ下さいませ。

小説扉絵も睦月ムンク先生の手により、秋の様相を意識した新しい画になっております。「新嵯峨野物語」をお読み頂けるのは月刊「嵯峨」だけでございます。どうぞ、購読のお申し込みやお問い合わせは、お気軽に大覚寺編集課までどうぞ。

「新嵯峨野物語」の連載お知らせ

平成二十六年九月三日の戊戌記念事業推進委員会で経過報告を行い、鋭意企画推進しておりました記念出版事業の一つが決定いたしました。
大覚寺と深い縁ある京都嵯峨芸術大学の客員教授であられる、藤川桂介先生による「新嵯峨野物語」を月刊『嵯峨』で小説連載いたします。
この小説の挿絵には同じく京都嵯峨芸術大学客員講師の漫画家・睦月ムンク先生をお願いいたしております。プロの漫画家にお願いすることで、後々には一般書店でも販売できるレベルのコミック、または布教冊子として独立させる等の可能性も図れるようにという意図です。
また、小説に登場する景勝地や寺社仏閣などを、京都嵯峨芸術大学とのコラボレーションによって紹介ページ作りを行い、それによって京都嵯峨芸術大学関係者にも月刊『嵯峨』を広く手に取っていただけるよう企画進行中です。
また、これとは別に戊戌開封法会の成満の後は、記録として紀要の編集も行う予定です。