2016年9月30日 | 戊戌だより, 新嵯峨野物語

「新嵯峨野物語」第十九話が、月刊「嵯峨」10月号に掲載されました。
冒頭一部をご紹介致します。
第十九話 「謎めく尚闈司」
弘仁十四年(八二三)九月のことです。淳和帝に朝廷の運営を託して、治国という重責から解放された嵯峨太上天皇は、平安宮からそれほど遠くはない冷然院へ移られて、自由な日常を楽しまれるようになられました。そんなある日のことです。藤原三守を通して、久しぶりに嵯峨院へ行幸するということを朝廷に連絡させたのです。院司からの報告でそれを知ることになった今上(当代の天皇)は、直ちに御輿の用意と警護の編成をするという返事をされました。ところが太上天皇からは、すぐにそれを固辞するという連絡をしてこられたのです。朝廷は太上天皇の身の上に危険なことが起こってはいけないと考えて、申し入れを受け入れてくれるように説得してくるのですが、それでもまったくそれを受け入れないまま、太上天皇は院の官人、女嬬たちに行き先を告げると、前駆、後駆などの警護もなしで愛馬に乗ると、冷然院から出ていかれるのでした。
続きは月刊「嵯峨」10月号にて掲載しております。
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2016年8月31日 | 戊戌だより, 新嵯峨野物語

「新嵯峨野物語」第十八話が、月刊「嵯峨」9月号に掲載されました。
冒頭一部をご紹介致します。
第十八話 「一帝二太上天皇誕生」
弘仁十四年(八二三)四月には、皇統を譲位された淳和帝は即位に向けて動き出していましたが、譲位した嵯峨上皇も慌ただしく動いていらっしゃいました。かつて退位された平城天皇が落ち着き先を失ってしまったためにあちこち動き回り、やがて旧都の平城宮へ戻ることになるのですが、結局薬子の変などという騒乱を引き起こすきっかけとなってしまいました。そんな苦い体験をしたことのある嵯峨は、速やかに宮中を出て冷然院へ移られ、院司には安倍安仁を指名して管理を任せると、運び込まれたおびただしい貴重な典籍と共に新たな暮らしを始められたのでした。ところがそれで、すっかり落ち着いた暮らしが約束されたわけではありません。これまで関わりのあった者たちがご機嫌伺いに現れるのです。それがあまり続くので、その応接に忙しない時を過ごさざるを得ない状態でした。
続きは月刊「嵯峨」9月号にて掲載しております。
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2016年7月28日 | 戊戌だより, 新嵯峨野物語

「新嵯峨野物語」第十七話が、月刊「嵯峨」8月号に掲載されました。
冒頭一部をご紹介致します。
第十七話 「思いを秘めた紫野行幸」
弘仁十三年(八二二)の正月を迎えましたが、朝廷はひき続き厳しい現実と向き合わなくてはなりませんでした。降雨がなく、厳しい日照りが続くという状態なのです。夏を迎えると稲苗が枯れてしまうというのに、田に水を引くことも困難になってしまいますから、その問題を解決するために、貧民を先にして富民を後にさせるというようなことまで決めなくてはならなくなっていたのです。「群神に急ぎ奉幣したのだが、少しも反応しない。『詩経』(五経の一つで中国最古の詩集)にも大変な旱魃が起こってしまい、心配で燻るような気持ちだと書いてある通りだ。朕と皇后は、使用する物を削減しようと思う」(日本後紀)自らの日常を引き締めながら、貧しい者に物を与えて救済したり、疫病が発生した所には、使者を送って救済したりしていましたが、嵯峨帝の意向に沿って公卿たちからも、しばらく俸禄を減じたいという申し入れがありました。政治を司る為政者たちは、みな協力して困難と闘おうとしていたのです。
続きは月刊「嵯峨」8月号にて掲載しております。
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