新嵯峨野物語

「新嵯峨野物語」第二十二話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十二話が、月刊「嵯峨」1月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十二話 「太上天皇、菊ヶ島幻想」

天長四年(八二七)正月のことです。
淳和帝は体調が優れず朝賀の儀を取りやめてしまわれましたが、陰陽寮が占ってみたところ、稲荷山の祟りだというのです。空海が東寺の塔を建立する時に、稲荷山の木を切らせたことが原因だと言います。今上は直ちに大中臣雄良を送って、それまで秦氏の私社であった稲荷神に従五位下を与え、神として遇することにすると同時に、実りを約束するといわれる、荼吉尼天を祀る稲荷神社を東寺の守護神として迎えたのです(類聚国史)。そしてさらに朝廷は、怨霊の原点となりやすい霊を祀っている、飛鳥の川原寺などに経を捧げたりして二月を迎えました。宮中での騒ぎの原因になっていた真名井内親王のことも、ようやく口に出す者もなくなっていたということもありましたので、今上は正子内親王を正式に皇后と決めて落ち着かれました。

続きは月刊「嵯峨」1月号にて掲載しております。

月刊「嵯峨」の詳細はこちらから。

「新嵯峨野物語」第二十一話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十一話が、月刊「嵯峨」12月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十一話 「家父長、思い溢れて」

天長二年(八二五)十月のことです。嵯峨太上天皇は日嗣皇子の時代から仕えてくれた重臣の藤原冬嗣を連れて、思い出多い交野へ向かわれました。これまで旱魃に悩まされながら、貧民救済を心掛けて、極力権力者たちが勝手な活動をすることを抑えてきた右大臣藤原園人でしたが、このところその政策の効果が思うようにあらわれなくなっていました。そんな時に、それぞれの公卿たちが行う経済活動を援護することで、町を潤し活性化していけば貧民の救済にも役立つという、右大臣とは真逆の施策を申し出てきたのが冬嗣でした。

続きは月刊「嵯峨」12月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第二十話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十話が、月刊「嵯峨」11月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十話 「法力合戦の裏で」

降り続く雪の中で弘仁十五年(八二四)改め天長元年の正月を迎えることになりました。早速ですが親交を重ねている渤海国からは、国家間の儀礼として使いを派遣してきましたので、淳和帝は大極殿にお出でになられて、使節をはじめ朝廷の高官たちの祝福を受けられ、紫宸殿では宴が催されて年号も天長とされたのです。いよいよ先帝の時代から、新たな治世に受け継がれたのだという、清新な気分が漂うなかでの年明けでした。それでも今上は使節に対して、「使人らは荒波を越え寒風を忘れて到来した。これまでの慣例に従い接遇しようと思うのであるが、年来諸国が稔らず百姓も疲弊している上に疾疫も発生した。これからようやく農時に入ろうとしており、送迎の百姓が苦しむことになるので、今回は京へ召さないことにした」(日本後紀)穏やかな所へ移ってもらって、いい風が吹くのを待って帰るようにと心遣いを表されます。しかし本はといえば、百姓たちが疲れ切っていることに対しての配慮の結果でした。民との苦しみを共有するという、嵯峨太上天皇の思いに共感する今上の気持ちがよく表れています。

続きは月刊「嵯峨」11月号にて掲載しております。

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