新嵯峨野物語

「新嵯峨野物語」第二十五話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十五話が、月刊「嵯峨」4月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十五話 「忍び寄る乱世の跫音」

嵯峨太上天皇との親交があって、朝廷との関わりも深かった空海大僧都が遷化されて、臣民の身近な心の拠りどころが失われてしまった上に、時は容赦なく時代の息遣いも姿も変えていきます。承和二年(八三五)四月のことです。仁明帝は新たな時代の変化によるさまざまな変化を考えられて、次のようなことを発表致しました。「『易経』に上を損じて下を益すれば民が喜ぶとあり、安らかで倹しくすることが礼に適っている。王者はこの原則に従うことで、古今一致している。朕は才能がなく愚かであるが良き在り方に従い斉えようと思う。おごりをやめ倹約に努めたいというのは、早くからの朕の気持ちである。今いる朕の子には親王号を避けて、朝臣姓を与えることにする。嵯峨太上天皇は限りない御恩の上にさらに恩沢を加え、子を一様に源氏とし世々別姓を設けず本流も分派も同様とした」(続日本後紀)朝廷の内にもかなり源氏を名乗る者が入り、皇族の援護ができるようになっていましたから、今上は嵯峨太上天皇の為政を受け継ぐことを強調して、公卿たちに不安感を抱かせないようにしていらっしゃいます。

続きは月刊「嵯峨」4月号にて掲載しております。

月刊「嵯峨」の詳細はこちらから。

「新嵯峨野物語」第二十四話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十四話が、月刊「嵯峨」3月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十四話 「時よ、緩やかに歩め」

天長十年(八三三)の七月半ばを過ぎるころのことです。秋になると洪水による被害や、大風の被害が出るので、仁明帝は諸国の神に奉幣して災害を予防するようにという指示をしていらっしゃいました。ところがそうした努力を無にするように、越後国からこんな情報がもたらされるのです。「去年は疫病が流行し、農作は天候が悪く、寒気の到来が早かったため穀物は稔らず、今飢疫が相続きたくさんの者が死亡しています。この凶年のための賑給(朝廷の恩恵を示すために窮民を救うこと)を行っても、百姓は乏しい状態ですので、米の売買を認めていただき、困っている民の助けとしたいと思います」(続日本後紀)今も干天が続いていて、一向に雨が降る気配がありません。朝廷にはそれを解消したくても、神仏の力にすがるしか手立てがないのです。

続きは月刊「嵯峨」3月号にて掲載しております。

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「新嵯峨野物語」第二十三話紹介

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「新嵯峨野物語」第二十三話が、月刊「嵯峨」2月号に掲載されました。

冒頭一部をご紹介致します。

第二十三話 「運命の扉開く時」

天長七年(八三〇)も半ばを過ぎるころのことです。前年から天候が不安定なことが多く、淳和帝はその影響を受ける事態に耐えながら、何とか百姓の苦難を和らげようとして、神泉苑において五穀豊穣の相撲を行わせました。しかしその最中の申の刻(午後四時ごろ)に、雷雨があったかと思うと、酉の刻(午後六時ごろ)には内裏西北の女官の使う部屋に落雷があって、左右近衛が騎乗して駆け付けて神火を消し止めなくてはなりませんでした。今上は戌の刻(午後八時ごろ)にやっと雷鳴は止んで宮中へ戻られるのですが、天候は安定しないばかりか地震まで連続するようになるのです。

続きは月刊「嵯峨」2月号にて掲載しております。

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