2016年4月11日 | 戊戌だより, 新嵯峨野物語

「新嵯峨野物語」第十三話が、月刊「嵯峨」4月号に掲載されました。
冒頭一部をご紹介致します。
第十三話「嵯峨源氏始まる」 弘仁四年(八一三)夏前のことですが、嵯峨帝は異国からのさまざまな接触を受けることになり、何が起こるか判らないという心配がありました。そのために、まず朝廷内の結束を確認しておかなくてはならないと考えられて、親しい関係を保ってきている近衛大将藤原冬嗣の閑院という名を持つ邸宅を訪問されたり、続いて弟である皇太子の大伴親王の屋敷である南池院(平安京右京四条に所有していた)へ、右大臣藤原園人など重臣たちを伴って行幸されたりすることもありました。 園人は苑池を巡りながら、こんな歌を詠みます。 今日の日の 池のほとりにほととぎす 平は千代と鳴くは聴きつや (今日、池の辺でほととぎすが、平安京は千代に栄えるよと鳴くのを、お聴きになりましたでしょうか) それに対して帝はこんな歌を返されました。 ほととぎす 鳴く声聴けば歌主と 共に千代にと我も聴きたり (ほととぎすが鳴くのを、和歌に詠んだ園人と共に、朕も平安京が千代に栄えると聴いた) 雅楽寮の楽人が音楽を奏するなかで、文人たちに詩を作らせたりしましたが、園人は喜びと感謝の気持ちを表そうと舞踏を行ったといいます。
続きは月刊「嵯峨」4月号にて掲載しております。
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2016年3月2日 | 戊戌だより, 新嵯峨野物語

「新嵯峨野物語」第十二話が、月刊「嵯峨」3月号に掲載されました。
冒頭一部をご紹介致します。
弘仁二年(八一一)正月です。
まだ政変があってからそれほど時も経っていないということもありましたから、治国ということではいろいろと目が行き届かないこともありました。そんな嵯峨帝に、早速のしかかってきたのは陸奥との紛争でした。祖霊光仁、桓武両天皇の時代から朝廷を苦しめ続けていた蝦夷との抗争は、武将坂上田村麻呂の努力で鎮圧されてから、長いこと静かになっていたはずだったのですが、また息を吹き返してきているというのです。
続きは月刊「嵯峨」3月号にて掲載しております。
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2016年2月1日 | 戊戌だより, 新嵯峨野物語

「新嵯峨野物語」第十一話が、月刊「嵯峨」2月号に掲載されました。
冒頭一部をご紹介致します。
弘仁元年(八一〇)十月、薬子の変の終結を知った空海は、高雄山寺からわざわざ宮中へやってきて、嵯峨院へ「五覚院」という帝の持仏堂を建立したいという請願をいたしました。帝の要請もあった変の鎮静化に貢献した空海の頼みですから、反対はありません。しかもそれが帝の安泰であることを祈願し、鎮護国家を願うためのものであるというのでなおさらのことです。申し出は直ちに許可されると同時に、空海は南都の東大寺の別当にも任じられました。
続きは月刊「嵯峨」2月号にて掲載しております。
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