2017年2月6日 | 戊戌だより, 新嵯峨野物語

「新嵯峨野物語」第二十三話が、月刊「嵯峨」2月号に掲載されました。
冒頭一部をご紹介致します。
第二十三話 「運命の扉開く時」
天長七年(八三〇)も半ばを過ぎるころのことです。前年から天候が不安定なことが多く、淳和帝はその影響を受ける事態に耐えながら、何とか百姓の苦難を和らげようとして、神泉苑において五穀豊穣の相撲を行わせました。しかしその最中の申の刻(午後四時ごろ)に、雷雨があったかと思うと、酉の刻(午後六時ごろ)には内裏西北の女官の使う部屋に落雷があって、左右近衛が騎乗して駆け付けて神火を消し止めなくてはなりませんでした。今上は戌の刻(午後八時ごろ)にやっと雷鳴は止んで宮中へ戻られるのですが、天候は安定しないばかりか地震まで連続するようになるのです。
続きは月刊「嵯峨」2月号にて掲載しております。
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2017年1月10日 | 戊戌だより

あけましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願いします。
明智門保存修理工事も終盤に入り、着々と風格ある明智門に戻っております。
また、ご奉納いただいた瓦も全て葺かせていただきました。深く感謝申し上げます。今後ともご高配のほどよろしくお願い申し上げます。 合 掌
・なまこ壁の損傷部分が修復されました
・屋根瓦が敷かれました
・左官工事も進んでおります
2017年1月6日 | 戊戌だより, 新嵯峨野物語

「新嵯峨野物語」第二十二話が、月刊「嵯峨」1月号に掲載されました。
冒頭一部をご紹介致します。
第二十二話 「太上天皇、菊ヶ島幻想」
天長四年(八二七)正月のことです。
淳和帝は体調が優れず朝賀の儀を取りやめてしまわれましたが、陰陽寮が占ってみたところ、稲荷山の祟りだというのです。空海が東寺の塔を建立する時に、稲荷山の木を切らせたことが原因だと言います。今上は直ちに大中臣雄良を送って、それまで秦氏の私社であった稲荷神に従五位下を与え、神として遇することにすると同時に、実りを約束するといわれる、荼吉尼天を祀る稲荷神社を東寺の守護神として迎えたのです(類聚国史)。そしてさらに朝廷は、怨霊の原点となりやすい霊を祀っている、飛鳥の川原寺などに経を捧げたりして二月を迎えました。宮中での騒ぎの原因になっていた真名井内親王のことも、ようやく口に出す者もなくなっていたということもありましたので、今上は正子内親王を正式に皇后と決めて落ち着かれました。
続きは月刊「嵯峨」1月号にて掲載しております。
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