清和天皇慶讃法会厳修【中国教区】
4月15日の記念法会四座目には寺派役職者ご参列の中、山川猊下を御導師に中国教区・弘友会司所・庭湖会による「清和天皇慶讃法会」が奉修されました。法会は奠供[供華]、散華・対揚[花手前、献華、献菓、献茶]、慶讃文、諸真言、願文、後讃、廻向、御法楽、称名礼の次第にて執り行われました。
清和天皇慶讃法会 慶讃文
敬って真言教主浄妙法身摩訶毘盧遮那如来 金剛界会三十七尊九会曼荼羅諸尊聖衆 並びに大悲胎蔵八葉蓮台十三大会塵刹聖衆 五大明王尊 当山鎮守五社明神 殊には勧請本尊薬師瑠璃光如来 般若・文殊両大菩薩 宗祖弘法大師 総じては佛眼所生一切三寶の境界に白して言く
夫れ惟んみるに当山は貞観十八年(陽暦八七六) 嵯峨帝皇女にして淳和帝皇后正子内親王の御願により嵯峨院縁の堂宇を整え 菅公をして上奏文を起草せしめ 時の清和帝より勅許を得て「大覚」の号を賜わる 皇孫恒寂入道親王を開山に定め 勅願寺院と成す
中興後宇多法皇院政期には壮大な伽藍を誇りしも 度重なる戦禍による荒廃と復興 先人の叡慮と幾多の苦労を重ねて連綿と法灯を繋ぐ
顧みるに第五十六代清和帝は嘉祥三年(陽暦八五〇)文徳帝の第四皇子(諱は惟仁)としてご生誕 天安二年(陽暦八五八)史上初めて幼帝として九歳で践祚され御在位十八年 資性寛容にして風儀甚だ美しく 遊猟戯楽に意を留めず 幼少期より佛法に深く帰依され 天台・円仁上人より菩薩戒を受け法諱素真と号される
外祖父・藤原良房公の補弼を得て政務を照覧され『続日本後紀』『貞観格式』の編纂『宣明暦』の頒行 新たな貨幣の鋳造 平安京の鎮護として石清水八幡宮の造営等 摂関政治の嚆矢として本朝の歴史において後の千年の行方を画期す 皇孫経基王は源氏姓を賜り臣籍降下 その末裔は武士の棟梁として三度政権を担い長くこの国を統べる
然し乍ら天変地異は避けること能わず 奥羽から越後・越中・摂津・播磨・肥後と大地は各地で鳴動し 出羽鳥海山・豊後鶴見岳・肥後阿蘇山・薩摩開聞岳と山々は相継いで噴火
別けても貞観六年(陽暦八六四)霊峰富士が大噴火 雷鳴天地を揺るがして山容を変じ湖沼を形成す 噴煙は東国の空を覆い災禍は二年に及ぶ 同十一年(陽暦八六九)大地震が大津波を伴って陸奥国を襲い 大地は裂け 海は咆哮し 濁流は内陸奥深くに達し国府多賀城も被災 有史以来の大災害なり さらには肥後国の風水害 隣国新羅の入寇は九州沿岸を蹂躙 伝染病の蔓延と災厄は止まることなく続き 正に未曾有の国難に瀕す 帝は罹災した人々を深く憐れみ その苦難を慮り租調の減免と救済に心を砕き仁政を施し給う
貞観十八年(陽暦八七六)幼い陽成帝に譲位せられ 元慶三年(陽暦八七九)宗叡上人を戒師として御落飾 その余命灯火を燃やし盡くすかのように畿内の山岳寺院を巡礼され 翌四年(陽暦八八〇)十二月四日粟田・円覚寺に於いて 西方に向かい結跏趺坐し定印を結び三十一歳で崩御 御遺命により荼毘に付された後 終焉の地と定められし水尾山陵に埋葬せられる 水尾帝と別称される由縁なり
時代は下り 清和帝の御心は千年の時を越え 昭和から平成・令和の帝へと承継され給う 国難に際しては人々の心に寄り添われ 綸言清明にして聞く人の心奥に響き 恰も巖に浸み入る水の如し
某は 大覺寺開創千百五拾年の勝縁に当たり 庭湖の水面を渡る風に古人の栄枯盛衰を聞き 水尾山陵を遥拝し畏れ多くも清和帝の御心に思いを重ね 報恩謝徳の一会を奉る
歴代聖帝全霊を以て浄書せられし勅封心経の寶前に於いて 金剛華菩薩を念じ 嵯峨御流華道弘友会司所 庭湖会の奉仕を得て 時花を供え 茶菓を奠じ 三才の桜の生花を奉献す 而して大覚寺派中国教区六十七箇寺より出仕の僧侶を引き具して心経法を修し 咒を唱え妙典を読誦し奉る
仰ぎ願わくは本尊界会諸尊聖衆擁護の眦を垂れ給い 無始の痴闇を破し衆苦を抜済して定慧の二徳を施し給え
重ねて乞う
寶祚無窮 萬邦協和 風雨順時
豊稔萬作 佛法紹隆 諸人快楽
伽藍安穏 院内静謐 無邊善願
決定圓満 乃至法界 平等利益
維時令和八年四月十五日
大覺寺第六十五世 龍舟 敬白
- 15日 中国教区による集会の様子
- 15日 寺派役職者参列の様子
- 15日 中国教区 法会の様子①
- 15日 中国教区 法会の様子②
- 15日 弘友会司所 花手前の様子
- 15日 弘友会司所 献菓
- 15日 庭湖会によるお点前の様子
- 15日 中国教区 慶讃文捧読
- 15日 中国教区出仕者集合写真








