渡月橋は嵯峨天皇の御幸橋
京都の中でも屈指の観光名所である嵐山・渡月橋、ここを訪れるのはその景勝のすばらしさを鑑賞することが一番の理由でありましょう。四季折々の自然が織り成す美しさを見せる嵐山、豊かに流れる保津川(桂川)に架かる渡月橋も景観の中の魅力となっています。その渡月橋として親しまれ渡月橋という名前の由来は知られていますが、いつ頃造られたのか、何のために造られたのかは、ほとんど知られておりません。
嵐山の中腹にあります法輪寺は、奈良時代の和銅6年(713年)に行基菩薩が元明天皇の勅願によって国家安穏、五穀豊穣を祈願する木上山葛井寺(かづのいでら)として創建された古刹です。空海の弟子である道昌が当寺に虚空蔵菩薩像を安置し、以後は真言宗寺院として歴代天皇の勅願所となりました。
平安時代、嵯峨天皇の御代となり弘仁元年(810年)頃に離宮嵯峨院(大覚寺の前身)を造営され、唐から帰国された弘法大師空海とここで親交を持たれました。離宮嵯峨院には国家の安寧を祈願するため、空海が請来した密教の教えに基づく、鎮護国家の仏である五大明王を祀られました。
嵯峨天皇は、同じく国家安穏を祈願する葛井寺(法輪寺)へお参りなされるため、保津川(桂川)に橋が架けられました。この川は、『山城国風土記』や『日本後紀』によると、古くは「葛野川(かどのがわ)」と称されていました。そして『日本紀略』には、嵯峨天皇は弘仁4年8月16日と弘仁5年7月16日に「葛野川に幸す」と記述されており、川辺まで行幸されて川の対岸から葛井寺(法輪寺)を遥拝されていたと考えられます。そのためお渡りできるように橋を造営されたのでした。それ以降、嵯峨天皇は離宮嵯峨院から屡々お参りなされ、上皇となられてからも幾たびも参詣なされました。
天皇が御在所をお出ましになることを行幸(ぎょうこう)あるいは広い意味で御幸(みゆき)と申しますことから、この橋を御幸橋(みゆきばし)と称しました。
鎌倉時代に亀山上皇が橋の上空を月が渡るように移動するのをご覧になり「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べられたことから「渡月橋」と呼ばれるようになりました。
嵯峨天皇時代の離宮嵯峨院である大覚寺の大沢池北側に建立されています心経宝塔から名古曽の滝跡に及ぶ辺りは、当時の離宮嵯峨院の御所の中心であります。現在もそうでありますが、地図の上でこの心経宝塔と法輪寺を一直線に結ぶと、その線上にピタリと渡月橋があるのです。このことからも解かりますように、嵯峨天皇が法輪寺へ参詣なされるために御渡りになった御幸橋が渡月橋なのであります。
『扶桑京華志』
「御幸橋 在大井河嵐亀二山間 弘仁天長年中 帝屢臨幸故營大橋 故名」
大井川の嵐山亀山両山の間に在り、弘仁天長の年中に、嵯峨天皇はしばしば臨幸なされるが故、大橋を営む。故に御幸橋と名づく
(大井川=大堰川、堰とは川の流れを制御するためにつくられる構造物の事で、
渡月橋に並行して堰が築かれている)