他縁大乗心・弥勒菩薩・唯識
万法唯識・三界は一心の作なり・三蔵法師・弥勒下生・如実知自心・知足
「二我何れの時にか断つ、三祗に法身を証す、阿陀は是れ識性なり、幻影は即ち名賓なり」
「哀れなる哉、哀れなる哉、長眠の子。苦しい哉、痛い哉、狂酔の人。痛狂は酔わ不るを笑い、酷睡は覚者を嘲る」
東北方 弥勒菩薩
■弥勒菩薩は、遠い未来、五十六億七千万年後に現れて(弥勒下生)、釈迦如来に続く如来となり、衆生を救うという仏様で、
現在は兜率天にいらっしゃいます。下生の際には、龍華樹の下で悟りを開き、三回の説法の座をもうけて(龍華三会)、
あらゆる衆生を救済されるといいます。
■お大師様は、『御遺告』の中で、自分が閉眼ののちには、必ず兜率天の弥勒菩薩のもとに往生し、弥勒下生の時、
ともにこの世に現れると示されましたが、ここから、後の真言宗の僧俗の間で、死後は兜率天へ往生して、弥勒菩薩の導きを得るとともに、
お大師様を礼拝したいという信仰が生まれました。
また、弥勒菩薩が現れることを待って救われたいという信仰から、やがて、現在を弥勒菩薩の世に変え、
世直しを目指すという活動も、中国、朝鮮半島、日本を通じて見られます。
■塔を持った姿で表されるのは、釈迦如来に次ぐ如来になることを意味しているものです。未来の希望を示す仏様です。
唯識思想(法相宗)
■こころともの、主観と客観との間の機能の違いに着目して、「空」説を受け継ぎながら『華厳経』「十地品」に
「三界は虚妄にして、但是の心の作なり」をうけて発展した説。
■唯識思想の根幹となるアーラヤ識と三性説(さんしょうせつ)を説く『解深密経(げしんみっきょう)』や、
マイトレーヤの『瑜珈師地論(ゆがしぢろん)』等を、アサンガ(無着)とその弟ヴァスバンドゥ(世親)が体系化した。
アサンガがマイトレーヤ菩薩に伴われて兜率天に昇り『瑜珈師地論』を授けたと伝えられる。
このマイトレーヤが歴史上の人物かどうかは諸説がある。
■唯識思想はこころを「心」、「意」、「識」と分ける。まず「業」の働きを説明するために潜在的な意識の流れを想定し、
「業」を蓄える場所を貯蔵庫に見立てて「アーラヤ識」(アーラヤは蔵とか宅の意)と呼んだ。しかし仏教は諸法無我、
諸行無常が大前提であるから、アーラヤ識とて一瞬一瞬に生じては滅する有為法であらねばならない(決してアートマン的な存在ではない)。
ただし刹那生滅を繰り返す時に、現在化したこころは何らかの印象を残す(薫習(くんじゅう))。
この機能によって過去の業を背負った意識の流れが説明できる。
■またこのアーラヤ識を我々の自我だと誤認する働きも我々のこころの中にある。
それを「意」(マナス)と呼び、我執を引き起こし、さらに業を引き起こすもととなる。
我々のこころは、潜在意識としてアーラヤ識
(「心」、第八識)→我執を引き起こす「意」(第七末那識(まなしき))→対象を認識する六識等の
「識」の三階建てとなっている。
■ところで、主観は対象を取るが、その対象は識によって知られた対象としてあるのであって、存在それ自体ではない。
我々の認識登らないもの、つまり関心のないものは無いに等しい。我々は各自が認識により仮構した世界にそれぞれ住んでいるといってよい。
その世界はこころが仮構したもので、真実そのものではない点をとらえて「唯識」という。
■そのようにして認識した世界に実在感をもち、執着を起こすのもこころの仕業であり、その認識構造そのものを誤った見方とし、
それを「虚妄分別(こもうふんべつ)」と呼ぶ。その「虚妄分別」で知られた主客対立の世界を、仮に構築された世界という意味で
「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」と呼ぶ。また、虚妄分別は過去の無明、業によって形成されたもの、縁起したものという意味で
「依他起性(えたきしょう)」と呼ぶ。
この依他起なるアーラヤ識の上に、主客対立の世界、我、我所の観念の世界が展開して、それが迷妄の世界、
輪廻の生存となっている。
■しかし迷うのもこころであるが、悟るのもこころをおいて他にない。
このアーラヤ識が別の状態に転じた(転(てん)衣(ね))時、つまり智となった時
(転識得智(てんしきとくち))、
アーラヤ識は虚妄分別せず主客を超越した悟りの世界が広がる。その状態を「円成実性(えんじょうじつしょう)」
と呼ぶ(あわせて「三性」)。
■唯識説は以上のように迷いの世界と悟りの世界を、ものの見方の転換、
こころの転換という形でとらえ、その達成のために唯識観なる瑜珈行を要求する。
■中国においては玄奘(600〜664)が『成唯識論』等の唯識論書を伝え、
その弟子慈恩大師窺基(きき)(632〜683)が法相宗を組織した。
その特質は、五性格別{悟りにいたる資質、能力等により菩薩、独覚、声聞、
不定(そのいずれでもないもの)、
無性(宗教的無能者の五種に分ける)}
を唱える。このことは、法華一乗の天台などの主流から批判され、華厳宗が大成するにおよび衰えていく。
■我が国へは道昭(629〜700)が唐から伝え、興福寺を中心に法隆寺(現在は独立して聖徳宗)、薬師寺などによりその伝統が受け継がれ、
長く仏教教学の中心として宗派を問わず重んぜられた。
慈恩大師の正忌日には、興福寺と薬師寺が年毎に交代で「慈恩会」を厳修している。
■空海は『十住心論』でこれを第六「他縁大乗心」とし、「弥勒菩薩の三摩地門なり」とする。また『般若心経秘鍵』では、『般若心経』の
「是故空中無色」から「無意識界」としている。
■八識をそれぞれ眼、耳、鼻、舌、身識→成所作智(物事を成し遂げる智恵)、
意識(第六識)→妙観察智(全体の内の部分を観察するに妙なる智恵)、
マナ識(第七識)→平等性智(自他平等の大慈悲心となる智恵)、
アーラヤ識(第八識)→大円鏡智(鏡がすべての映像をあるがままに映しだすように、
清浄無垢にして一切の煩悩や汚れから離れた、真実を悟る智恵)の四智に転換。
この四智に法界清浄を加えた五法の思想が『仏地経』、
『大乗荘厳経論』などに出ている。これが淵源となって金剛頂系の五智になるのであるが、
『大日経』では五智は出ずに一切智智を説いており、
金剛頂系の経軌にこの五智が出てくる。
空海が『即身義』で引く『金剛頂経一字頂輪王瑜珈一切時處念誦成仏儀軌』(大正蔵19。322.下)にも五智が説かれている。
しかし金剛頂系の経軌すべてが五智を説いているわけではなく、
ましてその獲得を主張しているものでもない。おそらく五智の確立は空海の『即身義』の
「各具五智無際智」の教学を待たねばならない。
参考文献
高崎直道『仏教入門』東大出版界
木村清孝『中国仏教思想史』世界聖典刊行協会
服部正明・上山春平『仏教の思想4■認識と超越<唯識>』角川書店
平川彰他編『講座・大乗仏教8■唯識思想』春秋社
金岡秀友『空海 即身成仏義』太陽出版
弥勒
何でもが心の所産であることを知り、少欲知足の心がけで生きている、
そんなイメージの花と言えば、春の日差しの中でいかにも幸せそうに見える、
ナノハナやタンポポをあげることができよう。
@ナノハナ
十字花科の二年草であり、草丈は1.3〜1.6メートル。
仲春から晩春にかけ、黄色の四弁花を総状に開く。
葉は食用とし、種子は菜種油を製し、その粕は肥料となる。
※安房の海や山の頂まで花菜 村山古郷
※一輌の電車浮き来る花菜中 松本旭
Aタンポポ
普賢の項目のAを参照。
御入定 兜率往生