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修行・平等性智・宝生如来・軍荼利明王

キーワード

六波羅蜜・供養(六種)・修行・回向・巡拝・写経・法事・華道・荘厳・彼岸会・お盆・施餓鬼・初転法輪

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般若心経秘鍵

「無辺の生死は何が能く断つ 唯禅那 正思惟のみ有ってす」
「明暗他に非ず、則ち信修すれば、忽ちに証す」
「是の故に誦持・講供すれば、則ち苦を抜き楽を与え、修習・思惟すれば、則ち道を得、通を起こす」
「医王之目には、触途に皆薬なり。解宝の人は礦石を宝と見る。知る与知ら不ると、何誰が罪過ぞ」

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伝道標語集

「若し人百歳なるも、最上の法を見ざれば、一日生きて最上の法を見るに若かず」『法句経』
「道を行いて、その跡を清くすべし」『出曜経』
「多聞ありといえども、若し修行せざれば聞かざるに等し」『涅槃経』
「菩提心を因となし、大悲万行を縁となして、三密方便を修行す」『十住心論』
「心の本源を知り、理の如く修行すれば、煩悩の垢を清めて心の本性を顕す」『秘蔵記』
「この乗に入って修行せんと欲わば、まず四種の心を発すべし、一には信心、二には大悲心、三には勝義心、四には大菩提心なり」『三昧耶戒序』
「夜もすがら仏の道を求むれば我が心にぞ尋ね入りぬる」恵心僧都
「尋ね来て実の道に入る人は此より深く奥をたずねよ」明恵上人
「百里を行くものは九十里をなかばとす」

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八葉蓮台諸尊

南方 開敷華王如来(宝生如来)

■胎蔵界の開敷華王如来は金剛界の宝生如来と同じです。 開敷とは満開の意味で、発心して修行を積み重ねることにより、 功徳の花が満開になることを示しています。 すなわちこの仏様は修行の象徴であるとともに、人々の願いに従ってあらゆるものを生み出す如意宝珠にもたとえられる徳をそなえておられます。 宝生というお名前はそれを表現したものです。 ■あらゆるものは、すべて等しく価値のあるもので、無駄なもの、つまらないものは何一つとしてない、 一切の事物の中に価値を見いだす仏様の智慧(平等性智)をそなえておられます。 ■金子みすずさんの詩の中に、「みんなちがって、みんないい。」という言葉がありますが、 この仏様は私たちに、あらゆるものの中に秘められたいのちの輝きを教えてくれます。この仏様のグループを宝部といいます。

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五大明王

南方 軍荼利明王

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年中行事

成道会 彼岸会

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花と華道

修行
冬の寒さや夏の暑さに負けることなく一生懸命に咲いている花、たとえば春のコブシ、 夏のヒマワリや日日草をあげることができよう。また、仏さまに供えられるシキミやキクもこれにふさわしいだろう。

@コブシ
モクレン科の落葉樹で3〜5月に花をつける。太くて筆のように見える穂先のような蕾がふくらみだし、 青みを帯びた花が咲く。その咲き始めの蕾が子供の握りこぶしに似ているところからこの名前がついた。 春の神様の宿る花ともいわれ、北国の春を告げる花として有名である。
※降りしきる雪をとどめず辛夷咲く 渡辺水巴

Aヒマワリ
キク科の一年草、草丈は20〜300センチ。 盛夏、ギラギラと照り付ける太陽に対峙するかのように大きな黄色の花を咲かせる。
※向日葵の一茎一花咲きとほす 津田清子

Bニチニチソウ
熱帯原産。わが国では一年草。初夏から秋にかけて日日に赤・白・薄青などの愛らしい花を咲かせ続ける。
※大事より小事重んじ日日草 伊丹三樹彦

Cシキミ
山林に自生するモクレン科の常緑樹で、高さ5〜6メートル。枝や葉に芳香があり、 仏前や墓前に供えられる。3〜4月に淡黄色の花が葉の付け根に群がって咲く。
※仏法の白さつくしぬ花しきみ 加倉井秋を

Dキク
キク科の多年草、高さは20〜100センチ程度。9〜11月に赤・ピンク・白・黄などの花を咲かせる。 気高い美しさを感じさせ、供花として用いられることも多い。
※菊の香や奈良には古き仏達 芭蕉
※菊の香やともしび もるる観世音 高野素十たかのすじゅう

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写経

準備をして写経を書き進めていくこと。

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はなびら

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標語集

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弘法大師事跡

虚空蔵求聞持法 高野山建立 入唐求法

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説話

 お大師さまは行く先で人の苦しみに出会うと、その苦しみをやわらげてきました。
 室戸の崎は風光明媚なところで、前には明るい大海原が広がり、背後には高い岩がそびえています。この海の向こうには観世音菩薩のおられる補陀落浄土がありますが、海はひとたび風が吹くと高い波が立って荒れるのです。ある時、お大師さまはこのあたりで修行に没頭していました。海は波や風が渦巻いて止みません。その波や風の中から、時折毒竜やら毒蛇が現れ、人々を苦しめ、お大師さまの修行の邪魔をするのですが、修法によって追い払いました。お大師さまの修法は、それは厳しいものでした。夏には穀物を断ち、冬は下着一枚で戸外で行をしました。荒行とは、自分を捨てて大自然と一体になり、限りなく仏に近づくことなのです。
 お大師さまは自分が修行することによって、その土地に仏教を広めていったのです。はじめて本当の仏教に出会った人々の驚きが、伝説となって残っているのでしよう。ある時、お大師さまは伊豆国(静岡県)にありました。桂谷の修善寺で、お大師さまは厳しい修行をされていました。そこに恐ろしい魔物がでました。お大師さまは虚空に向かって指を走らせました。魔物を退治する経である『大般若経』の魔事品を書いたのです。するとまったく乱れのない見事な書体の経文が、空中に現れました。お大師さまのすぐれた筆跡が大空をおおい、魔物は二度と現れることができなくなり、それとともに人々の間に仏法が広まっていきました。こうしてお大師さまは虚空にさえ経文を書き、仏の徳を示して、天神地祗(国土の神)をも感応させ、魔を調伏させたのです。人々に害を与える天魔を降し、人々も助けました。余人では理解することもできない高い境地の修行をしながら、そこにとどまっているわけでもなく、その徳を人々と分かち与えてこられたのです。お大師さまの行いは人助けとともにありましたから、お大師さまが行くところには仏法が広まり、人々の信頼も絶大なものになりました。
 お大師さまほど全国に伝説を残している人もありません。北海道松前郡の阿吽寺はお大師さまが開き、本尊の不動明王も刻んだと伝わっています。もちろんお大師さまが北海道に行っているはずはありません。その他にもお大師さまが旅の僧となって水を乞い、与えてくれた人へのお礼に独鈷や錫杖で地を突くと水が湧いてきたという話は、たくさんあります。杖を地にさすと銀杏になったり、孫に栗をとろうとする祖母のために村に栗の実をたくさんならせたり、葉を水に落とすと魚になったりと、人々を救う話は数知れません。人々は生活の中からお大師さまを慕っていたことがよくわかります。修善寺温泉の湯は、桂川上流の岩盤をお大師さまが独鈷で打ったために、加持された薬湯が湧き出したと伝えられているのです。

 唐に渡る前、お大師さまは航海の無事を祈るために宇佐の八幡大明神や賀春大明神にお参りをしました。無事に日本に掃ってきたお大師さまは、神社にお礼にいきました。賀春大明神の境内がすっかり荒れているのを見て、お大師さまが加持祈祷をすると、樹木が繁ってきたと伝えられています。中国で深遠なる密教の奥義を学んできたお大師さまですが、日本古来の神々への信仰も忘れず、神仏習合の思想を深めていったのです。
 ある時、お大師さまは河内国(大阪府)にある聖徳太子の御廟(太子町)に百日間参籠しました。九十六日目になると御廟の中から『理趣経』を唱える美しい声が聞こえてきました。「この声はどなたが出しているのかお示しください」とお大師さまが念じると、御廟の前に光明の輪がひとつでき、そこから声が響いてくるではありませんか。聖徳太子がお大師さまに語りかけているのでした。
 「わたしは救世観音が人々を救うためこの世に現れた姿なのです。阿弥陀の浄土に住んでいましたが、この世の衆生を救済するため、穢れた世界にやってきたのです。わたしの母は阿弥陀如来の垂迹(如来や菩薩が衆生を救う目的で神や人間の姿でこの世に現れる)で、わたしの妻は大勢至菩薩の垂迹です。阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の三尊はそろって日本に生まれ、ここで人々を教え導くのです。聖徳太子のわたしが亡くなってからずいぶんの歳月がたちますが、三尊になぞらえて、三人の骨を廟の内部にならべてあるのですよ。この光の中に阿弥陀三尊の姿を現して、『法華経』や『勝鬘経』などの大乗仏典を読誦しているのですよ」
お大師さまは阿弥陀三尊のお姿をはっきりと御覧になったといいます。日本にはじめて仏教を興隆させた聖徳太子と、お大師さまとを、後世の人はどうしても結びつけたかったのでしよう。

霊鷲山で釈迦如来に会う

 お大師さまは師を求めて長安城内を歩きまわり、顕教と密教の高僧に会って仏法の奥義を究めようとしました。長安の醴泉寺では天竺からきた般若や牟尼室利は一万人もの学僧がいるナーランダー寺の頂点にいる学僧でした。般若がお大師さまにこんなふうに言ったとのことです。「わたしは少年の頃より仏道を志し、法を伝えることを誓ってきましたが、東の国に縁がなく、日本にいけないのが残念です『華厳経』『六波羅密教』など新翻訳経を、あなたが日本に持ち帰り、広めていただきたい。そうすればわたしも東のほうに仏縁が結べるのです」と、お大師さまは寝食も忘れて勉学に励み、写経に没頭しました。学んだのは、仏法についてだけではありません。医学、工学、論理学、文法学、詩文などありとあらゆる学問をしたので、寝る間も惜しむほどの毎日だったでしょう。このように長安での日々は充実しきっていました。
 唐の国はもちろん日本よりも天竺により近い距離のところに位置しています。いつしかお大師さまは天竺の霊鷲山に登り、お釈迦さまの本当の姿にお会いしたいものだと考えるようになりました。そんなある日のこと、一人の童子がお大師さまの前に姿を現し、「どうぞ霊鷲山にお参りください」と申しました。もしかするとお大師さまの夢の中の話かもしれません。どこからともなく白い馬が駆けてきました。飾り立てた鞍にまたがった童子は、後ろに乗るようにとお大師さまに言ったのです。お大師さまが乗ると、白い馬は飛ぶように走りはじめ、たちまちにして沙漠を越えました。翌日には大きな青い羊が待っていて、童子は前のように鞍を置くと、お大師さまを後ろに乗せて駆けだしました。こうしてたちまちのうちに険しい峰を越えたのです。その次に車が待っていて、お大師さま一人が乗ると、夜叉神がこれを押しました。こうしてお大師さまは天竺国の霊鷲山の麓にやってきたのです。「あなたはどちらの人ですか。何を求めて、どこにいこうとしているのですか。」その時、白い髭の老人が一人出てきて、お大師さまに問いました。「私は中国の長安から参りました。これからお釈迦さまにお目にかかるため霊鷲山にお参りするのです。」と、お大師さまが返事すると、老人は言いました。「あなたはきっと仏とお会いになるでしょう。ただし、仏滅後に多くの歳月がたっているので、たやすくはありません」と。
 霊鷲山に向かって、お大師さまは歩き出しました。香りのよい雲が谷に満ちていて、花々が咲き、ここで修行したいと思うような心楽しくなる場所でした。そこにお釈迦さまが、左に観音菩薩を、右に虚空蔵菩薩をしたがえ、八万の菩薩と、一万二千の声聞に向かって説法をされていました。お釈迦さまはお大師さまにこうおっしゃったのです。「あなたは多くの功徳を積んだから、こうしてわたしと会うことができたのだよ。あなたは仏のさとりの秘密の教えを学び、正しい教えを広め、遥かに先の時代、弥勒がこの世に出現する時まで、人々を救うのだよ。」と。お釈迦さまにお目にかかることのできたお大師さまはたいへん喜び、右まわりに回って礼拝し合掌しました。それからチベットの峻険な峰を越え、西域の熱砂を渡って、長安の西明寺に帰りました。全部で七日七晩かかりましたが、お大師さまはまったく空腹にもならなかったといいます。お大師さまはお釈迦さまに会ってから、ますます修行に励みました。

五筆和尚
能書は必ず好筆を用う(『遍照発揮性霊集』)

 唐の宮中には三間の壁があり、そこに晋の王義之の書があったのですが、歳月がたって風化したため、二間の壁を修理しました。そこに新たに書をしたためようと欲したが、おそれ多くて誰もありませんでした。唐帝は適任者を探しました。日本の僧に書を書くようにと勅令を出し、お大師さまが筆をとることになったのです。お大師さまは右手と左手に一本ずつ筆を持ち、右足と左足の指にも一本ずつ筆をはさみ、口に一本の筆をくわえ、五箇所に五行の書を同時に書いたといいます。もう一間では、墨を口に入れて吹きつけると、壁一面に「樹」という字が現れました。唐帝以下その場にいた人たちはみんな驚いてしまいました。そこでお大師さまは唐帝より五筆和尚の名を賜った、ということです。
 しかしながら五筆とは、五つの書体(楷書、行書、草書、篆書、隷書)に巧みであったからとも言われています。曲芸師のようなことをしたのでは決してないでしょう。また後に嵯峨天皇がお大師さまの書を御筆としてたいへん貴び、世間一般でもお大師さまの書を御筆と呼んだことから、五筆となったという説もあります。お大師さまは唐筆の製法を学び、製墨法を伝え、書道の発展にたいそうつくされました。
 唐帝は、お大師さまにこの国にとどまるようにと願いました。お大師さまはこのように返事をしました。「わたしが自分の身命もかえりみず、苦難をものともせずに海を渡ったのは、正しい仏法を伝えて日本という辺境に住む人々を救うためです。わたしの伝える仏法が、日本では必要なのです」と。唐帝ももののわかった人で、「あなたのおっしゃることは道理にかなっています。あなたのことをお引きとめすることはできますまい」と返事をしました。唐帝は菩堤樹の実の念珠をお大師さまに贈りました。この念珠は今も東寺に寺宝として伝わっています。
 ある時、お大師さまは長安城を流れる川のほとりを散歩していました。その流水のほとりに、そのあたりにいる粗末な身なりの童子がいて、お大師さまの姿を見るなり近づいてきました。「あなたが日本からきた、名高い五筆和尚ですか」「そうも呼ばれています」お大師さまは謙虚に言葉を返します。童子はこんなことをいったのです。「本当にあなたが五筆和尚なら、虚空に字を書くことができますか」お大師さまが空中にさらさらと筆を動かすと、文字がいつまでも浮かんでいます。「わたしも書いてみます」といって童子も同じように筆を動かすと、同じように文字が浮かぶのです。「和尚さん、今度は流れる水に字を書いてください」と童子にいわれ、お大師さまは水面に流水を讃える詩を書きました。文字は乱れることなく流れていき、童子は微笑んですっかり感心した様子でこういいました。「おもしろいですね。わたしもやってみましょう。」童子は流水の上に龍という文字を見事に書き上げました。文字は水面に浮かび、流れていきません。でもよく見ると、その字は小さな点がひとつ足りないのです。お大師さまがそのことをいうと、童子は「忘れました、和尚さんがうってください」といいます。お大師さまが点をうつと、文字は本物の竜となり、稲光と黒雲とをだして天に昇っていきました。
 あまりにも不思議なことに、「あなたはどなたなのですか」とお大師さまが尋ねました。「わたしは五髻童子と申すです」というなり、童子は消えてしまったのです。きっと文殊菩薩がお大師さまの書をその目で確かめたくて、現れたに違いありません。

飛行の三鈷

 お大師さまは、唐における密教の研究を完成させました。師の恵果和尚も亡くなられたので、お大師さまは密教を日本で広める責任を感じていたのです。しかし、留学僧としてきたからには、唐の国に二十年間とどまる予定でした。二年足らずの滞在で帰国することは許されないのですが、日本からきていた遣唐使判官高階遠成や留学生の橘逸勢らと帰朝することを皇帝憲宗に願い出て、和元(延暦二十五、八○六)年正月に許されました。普通では二十年かかるところを、お大師さまは努力して二年で成し遂げたのです帰国することがきまって、必要な書籍を集めたり、必要なら書写してもらったりしていました。
帰国の乗船をするため明州という港にきて、お大師さまは祈願をしました。「わたしが習った密教を伝えるためにふさわしい場所があるのなら、これから投げる三鈷杵が飛んでいき、そこにとどまるであろう」。日本の方向には紫色の雲がありました。
お大師さまが金色の三鈷杵を空に投げると、紫色の雲の中をどんどん飛んでいきました。その場所に集まった人たちは、大変不思議に思ったことでした。
 お大師さまは高階遠成や橘逸勢らとともに、海を航行している時、嵐に遭いました。風は強く波は高く、船は沈没するかとも思えました。「わたしは将来必ず諸天の威光を増し、人々を救済するために、寺院を建立し、教えにしたがって修行をいたします。どうか善神はわたしを助け、日本に帰らせてください」とお大師さまは一心に祈りました。お大師さまの祈りが諸天に通じ、激しい風も波もぴたりと止みました。恵果和尚から伝えられた密教は、お大師さまがいなくなればこの世から消滅してしまいます。お大師さまの乗った船が着いたのは、博多付近の海岸だといわれています。

 弘仁八年秋には、お大師さまは弟子たちをともなって高野山に登り、全域の地勢を大観し、諸堂の位置を計画し、ここに伽藍を建設するため、七日七夜にわたり、七里結界の祈祷を修しました。お大師さまの最大の目的は、この地に両部曼荼羅を建立することでした。七里四方を結界し、さらに壇上を二重に結界しました。内八葉と外八葉と呼ばれる十六の峰が、この内にあります。お大師さまは高野山に大曼荼羅を描き、ここに密教の大道場をつくろうとしたのです。常人ならひとつの峰を見るだけで精一杯なのに、お大師さまは宇宙から山河全体を見ていました。この大事業にとりかかったお大師さまは、宗教の理想を地上に実現させようとしたのです。
伽藍建設のためあたりの樹木を伐り払っていると、大きな木の枝に、唐の国を出港する前に投げた三鈷杵がひっかかっているのが見えました。まさにここが密教を伝えるのにふさわしい場所ということです。後に弟子の真然がお大師さまの意を受け、中院を建設して、この三鈷杵を納めたということです。
 三鈷杵のかかっていた松の根元に庵室をつくりました。それが現在の御影堂ということです。お大師さまの実の甥である真然大徳の『御影堂飛行三鈷記』にはこのようなことが詳記されています。また、「三鈷の松」の聖跡として三葉の松が植え継がれています。

高野山開創

 お大師さまは修行する場所を求め、山野を歩きまわり、高野の峰を目に留められていました。日本では、高山深嶺に入る僧はまだ少なかったのです。これは禅定の場所がいまだに整っていないことを意味しています。『性霊集』第九巻に収められている『高野の峰に入定の処を請う表』には、「いまや仏法は栄え、すぐれた僧侶があちこちのお寺で勉学を続けているが、高い山や深い峰に入りこみ、静かな土地で禅定にふける人はきわめて少ない。そこで禅定に入る最も適当な土地として、少年のころ見ていた高野山を賜わりたい」と、その開創の目的が述べられています。

 密教はインドで興りましたが、お坊さんたちは静かな山や野で、大自然の中にとけこみ、仏と一体となる修行に励んでいました。その密教が中国に伝わりますと、中国では、中央政府が実権をしっかり握った政治体制であったため、密教の教えもそれに似合って、朝廷とか都市に住む人たちのものになってしまいました。当時の日本の政治とか社会の体制では、都市のさわがしさ、わずらわしさを嫌い、つねに深山での瞑想の生活を求められていたのです。お大師さまの文章とか手紙の端々にもこういったお気持ちがにじみ出ているようです。山に入りたいという年来の願望が高野山の開創となって具体化したのでしよう。

 ある時、お大師さまは大和国宇智郡(現在の五条市のあたり)にいました。お大師さまは大小二匹の黒犬を連れた狩人に会ったのです。狩人はお大師さまの姿を見てニコニコし、心に何かを思っているようでした。修行の場所を探しているお大師さまは、さっそく狩人に尋ねました。「あなたは岩を踏み、川を渡り、峰を乗り越え、広く山谷を歩いておられるようですが、深い岩屋や静かな霊場など修行するのにふさわしい場所を御存知ありませんか」と。狩人に「わたしは南山の犬飼いで犬とともに獣を追って暮らしております。わたしの所領の山地は一万町歩あります。東西の山は竜が臥すかたちをして、南北の山は虎がうずくまるかたちをし、平らな原と深い沢があって、三方に山が続いております。東南の方向は開け、山中に降った雨はすべて東に落ち、集まって一本の川になります。昼は美しい雲がたなびき、夜になれば神妙な光が流れるのです。あなたがここにきてくだされば、わたしはどんな援助もいたしましょう。わたしは山の中ばかりにいるものですから、どうも人間の世界にうといのです。でもわたしは、菩薩にお会いしたことがわかりますよ。わたしにあなたを援助させてください。わたしに威光と幸福とをくださいますように」といって犬を放ちました。狩人は、荒野明神、すなわち狩場明神の化身だったのです。
 お大師さまが高野山に登った時、山道の途中に丹生都比売神社がありました。天野というところです。丹生とは水銀のことで、いろいろな成分がまじっている金属から金を取り出すにも、仏像に金を鍍金(メッキ)するにも、水銀が必要です。水銀は貴重な鉱物で、高野山には水銀の鉱床がたくさんあるともいわれています。水銀を扱う丹生氏とお大師さまは結びついていて、求法のため入唐する莫大な費用である砂金は、丹生氏から出たのだという一説もあります。狩場明神も丹生都比売命も、丹生一族が祀っていた地主神なのです。その晩、お大師さまは丹生郡比売神社に一泊しました。すると丹生都比売命の神託が、巫女を通してあったのです。「あなたがここにおいでくださり、こんなに喜ばしいことはありません。その昔、わたしが人間であったとき、食国皇命が、一万町歩の領地をくださいました。南は南海まで、北は紀ノ川まで、東は大和国の境界まで、西は応神山の谷までです。わたしはあなたにこの土地を供養いたします」と。丹生明神と、はじめに会った狩場明神とは、母子であるとも夫婦であるともいわれています。お大師さまは丹生明神と狩場明神とを、高野山の守護神と定めたのです。もともとお大師さまは古来の日本の神を信仰しておりました。これから建設する伽藍の守護神として丹生明神と狩場明神を勧清することは、お大師さまの信仰心としても当然のことです。真言密教の根本道場を高野山につくろうという気持ちが、お大師さまの中で固まったのです。高野の地は高山でありながら湧水は豊富で、周辺の土地から食料は簡単にとることができます。美しい花が咲き、甘い果実が実り、清らかな水が湧く楽しいところで、しかも都の塵から離れた静かな場所なのです。

雨を祈る

 天長元年(八二四年)は雨が降らず、人々はたいそう困りました。そこで淳和天皇は勅命を下し、雨乞いの修法をすることになりました。西寺に住んでいた守敏は先に雨の祈祷を七日間かけてしました。雨は確かに降ることは降ったものの、都をほんの少し濡らしただけで終わりました。次にお大師さまが内裏の南の神泉苑で請雨経法をしたのですが、七日間さっぱり雨は降りませんでした。不思議に思ったお大師さまが瞑想をしてみると、守敏が呪力によって竜神たちを水瓶の中に閉じ込めていることが分かったのです。なおもお大師さまが瞑想を深めると、北インドの大雪山(ヒマラヤ)の無熱池に住む善女竜王は、守敏の呪力から逃れていることがわかりました。

 お大師さまは二日間修法を延長してもらい、真言を唱えて竜王に神泉苑にきてもらったのです。請雨経法中の池に善女竜王の黄金の姿が現れました。白い大きな蛇の頭上に小さな黄金色の蛇が乗っていました。お大師さまとその弟子たちは善女竜王を礼拝しましたが、他のものたちは見ることさえできませんでした。淳和天皇はまことに喜ばれ、たくさんの供えもので竜王を供養しました。お大師さまが修法をはじめるや黒い雲が湧いてきて、たちまち雨が激しく降ってきたのです。雨は三日間降りつづき、池の水も大壇まであふれ、洪水になったほどでした。お大師さまは茅でつくった竜を壇上に立てて祈っていました。みんながどれほど喜んだかしれません。お大師さまは善女竜王を神泉苑に招き、そこに住むようにしました。慈悲心が深く、人に害をおよぼさない竜王です。神泉苑は、御所に流れる泉水の湧くところでした。この水は澄んで涼しく、慈悲に満ちた竜王が住んでいるので、心楽しいところです。
 農業が主な産業であった古代会社にあつて、降雨を祈り、潅漑用の池を築くことなどによって、農業生産を増進することが、ただちに国家と民衆の福祉につながったわけです。鎮護国家といえば、一般に国家とか権力者を外敵から守護する考えであるかのように受けとられております。しかしお大師さまの著作をよく読み、あるいはその生涯の歩みをたどってみると、民衆に及ぶ災害を除き、福を増すため、すべての活動力を集中することが護国の本当の意味であることが容易にわかります。密教経典の中には、各人の身にふりかかるさまざまな災難から、人々を守護するために修する法が説かれています。お大師さまはこういったインド密教の本義を受け継ぎ、その上に、国王の力によって密教を広めるという中国的な考え方も加味された日本独自の護国思想を展開されたといってよいでしょう。

四国遍路の開祖 衛門三郎

 お大師さまを慕って霊場巡拝を始めたのは、彼がいちばん始めであるという説もありますが、それはお大師さま在世中のことです。
 伊予の国・浮穴(うけな)郡荏原の郷に河野衛門三郎(こうの えもんさぶろう)という豪族がいました。年貢米の取り立てが主たる役目の衛門三郎は生来強欲非道で、有り余る財産をもちながら哀れみの心が少しもなく、土地の貧乏人に金を借して高い利息を取り、貸した金を払わないものは、その地から追っ払うというひどいやり方をするので、悪鬼長者とあだ名されて村人から恐れられていました。その邸跡は今でも残っています。お大師さまがこの悪党を教化しようとして、彼の家の門へ托鉢にお立ちになりました。もとより無信仰なけちん坊でありますからお供養をする気はありません。  「この乞食坊主め」といって箒で鉄鉢をたたき落としたのです。するとどうでしょう。鉄鉢は八つに砕けて光を放ちながら、大空高く舞い上がり、遥か彼方の山すそに落ちたかと思うと、今まで門前にたっていた大師の姿は消えるように見えなくなりました。強欲非道な衛門三郎も、この有様を見て大変驚きましたが、強欲非道な心を改めようとはしませんでした。
 三郎には八人の子どもがいましたが、どういうことか、その翌日から子どもたちが次々と死んでしまったのです。子どもたちは高い熱を病んで苦しみながら死んだというのですから、おそらく伝染病だったのでしょう。さしもの強欲非道で涙を流したことのない衛門三郎も、この時ばかりは大声をあげて嘆き悲しみ、涙ながらに八人の子どもを葬りました。(その地を八塚といって今も古い跡が残っています)
 衛門三郎はこのようなたび重なる不思議な出来事に感じ入ってはじめて自分の非道を後悔し、高僧にお会いして懺悔し、謝罪しようと四国遍路の旅に出たのです。懺悔の心をおこし、み仏のお慈悲にすがってこの苦悩をのがれようと、帰依の心をおこした衛門三郎は、自分の財産全部を投げ出して地方の貧しい人たちに与えて、多勢の人を喜ばせた後、一本の杖をたよりに大師のみ跡を慕って信仰の旅に出、彼はお大師さまに巡り逢いたい一心から、四国を二十度巡拝しましたが、どうしてもお大師さまに逢う事が出来ません。阿波の第十八番・切幡寺(きりはたじ)で、逆に回れば逢えるかも知れないと思い、八十八番・讃岐大窪寺(おおくぼじ)から逆路をたどりはじめました。第十二番・焼山寺(しょうざんじ)の近くにきたとき、三郎は二十一度の旅の疲れにどっと大地に倒れてしまいました。すると「三郎!三郎!」と呼ぶ声が聞こえ、眼を開くと、見慣れぬ旅僧が立っているのでした。それこそ探し求めていたお大師さまその人でした。お大師さまの姿に気がついた三郎は、起き上がって平伏し「お許し下さい」と言った後は、言葉が続かず泣くばかりです。お大師さまが小石を拾って「衛門三郎再生」と書き、左手に握らせると、三郎は眠るがごとく安らかに息絶えたのでした。時は天長八年十月二十日のことでした。
 時代が変わり、伊予の国の領主である河野伊予守左衛門介越智息利の令室が、玉のような若君を生みました。しかし、若君は幾日たってもその左の手を堅く握ったまま開くことをしません。そして若君三歳の春、花見の折、大勢の真中にすすみでた若君は両手を合わして「南無遍照金剛」と三度お唱えしました。すると今まで堅く握られていたお手を開かれ、その拍子に手の中より小さな石が落ち、それには「衛門三郎再生」と書かれていたのでした。これこそ何年か前に死んだ衛門三郎が、お大師さまの情け深い加持のお導きによって伊予の殿さまの若君として生まれ変わったもので、若君はその後成長してりっぱな国司になったといい伝えられています。人々は衛門三郎再生と感激し、その石は松山・道後の安養寺に収められました。以後、この安養寺は、石手寺と改められ、第十五番・熊野山石手寺(くまのさんいしでじ)のおこりとなりました。

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