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涅槃・成所作智・不空成就如来・金剛夜叉明王

キーワード

生死即涅槃の境地、そこに至る転換が菩提
般若によって生死に住せず、慈悲によって涅槃に住せず
涅槃の道場至るところ密厳の道場なり、自由な境涯、良寛、入定留身、これが大乗の涅槃
常楽我浄=仏さまの世界 プラスイメージの涅槃

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般若心経秘鍵

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伝道標語集

「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」『性霊集8』

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八葉蓮台諸尊

北方 天鼓雷音如来(不空成就如来・釈迦如来)

■胎蔵界の天鼓雷音如来は金剛界の不空成就如来と同じです。不空成就如来はまた、釈迦如来と同体とされます。 ■天の鼓は、春の雷がどこからともなく鳴るように、自然に響いて衆生を驚かすといいますが、仏様の説法もこのように、 自由自在に人々を教化します。そして、衆生は救われ、教化のはたらきは円満に成就して空しくないというところからこのように呼ばれます。 釈迦如来が、成道から涅槃に至るまで、衆生教化の日々を送ったことを象徴するものともいえます。 ■さまざまな衆生教化の姿、行いを成就する智慧(成所作智)をそなえた仏様で、釈迦如来が菩提樹の下で成道したように、 悟りを得て安らかな境地(涅槃)にありながら、なお、衆生を教化するために、正しい智慧を持って真実の行いをなし、煩悩を滅ぼし、 救いがたいものをも導く力を秘めた仏様です。 ■この仏様のグループを羯磨部といいます。これは教化の行為を意味しています。安らかな境地と雄々しい力をともに教えてくれる仏様です。

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五大明王

北方 金剛夜叉明王

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年中行事

<通年行事>
常楽会(涅槃会)
 釈尊の三大法会の一つで、釈尊入滅の忌日である2月15日か、月遅れの3月15日に行われる。玄奘三蔵の『大唐西域記』にも記述があり、インドでも古くから法会を営む習慣があったとみられ、中国・日本にも早くから伝わっている。
 日本では奈良時代には通年の行事として行われており、後に明恵上人高弁が『四座講式』を撰述するなど、次第が整えられ、民間にも年中行事として広く知られるようになった。

<通過儀礼>
二七日

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花と華道

涅槃
自由な境涯、突き抜けた境涯を暗示する花がこれにふさわしい。 たとえば、日本人にとっての花の中の花のサクラ、それに劣らず古来より愛されてきたウメ、 あるいは俳人の好むレンギョウやモクレンなどをあげることができよう。

@サクラ
バラ科の落葉樹、花といえば、サクラをさすのが一般的である。 高さ5〜7メートルで3〜4月に花をつける。花の色は赤やピンクであり、 咲く花も散る花も古くから詩歌に詠まれてきた。 
※大空の鏡の如きさくらかな 高浜虚子
※はなちるや伽藍の柩おとし行く 凡兆

Aウメ
中国原産のバラ科落葉樹、万葉の時代に伝わり、庭木や果樹として栽培された。 高さ6〜7メートル、2〜3月に花をつける。他に先駆けて咲くので春告草とも言われる。
※いつ見ても梅寂光の中にあり 川本臥風

Bレンギョウ
モクセイ科の落葉樹、高さ2〜3メートルで3〜4月にかけて花をつける。 原産地は中国で、黄金色の小花を枝いっぱいにつける。 その様子が希望がかなったように見えるところから、「かなえられた希望」という花言葉を持つ。
※連翹や大悲のほとけ見て飽かず 角川春樹

Cモクレン
モクレン科の落葉樹、高さ3メートル以上。 3〜5月にかけてランやハスに似た花をつける。 色は濃紫紅色で気品があり、その花言葉のように「自然への愛」を歌っているようだ。
※木蓮のため無傷なる空となる 細見綾子

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写経

写経を書き上げたとき。

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はなびら

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標語集

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弘法大師事跡

御入定 二仏中間の導師

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説話

お大師さまの入定(涅槃)

 御庵室でお大師さまが目を閉じると世間の風習のとおりに七七日の法会を取り行い、七日ごとに弟子たちがお顔を確かめました。お大師さまはまるで生きているままのお姿や顔色を保ち、髭が伸びていたということです。そうして、五十日目に実恵、真雅、真如、真済、真紹、真然らの弟子たちが御輿を担ぎ、生きているとおりの身体を奥院に運びました。後に奥院は石檀を建て、入り口を狭くしてやっと人が通れるくらいにしました。その上に石の五輪塔を建て、悉曇(梵語の文字)の陀羅尼経を納めました。供養のために宝塔を建て、仏舎利を安置したのです。それから八十年以上もたった延喜年間に、醍醐天皇が香染めの桧皮色の衣をお大師さまに贈り、観賢はその衣を持って高野山の奥院にお参りしました。観賢は十五歳で真雅の弟子となり、東寺の第九代長者、醍醐寺の座主、高野山金剛峯寺の第四代座主をとつめた人物です。観賢が奥院に行くや霧が立ち込めてきて、お大師さまの生きたお姿を拝むことはできませんでした。観賢が心を込めて祈ると霧が晴れてきて、雲の間から月が出るように、お大師さまがお姿を見せてくださいました。観賢は涙を流してお大師さまのお姿を拝みました。お大師さまの衣はぼろぼろで、風にもほどけそうになっていたので、醍醐天皇より贈られた衣に着替えていただきました。その時、観賢が連れていた弟子の石山寺の淳祐は、そばにいるのにお大師さまのお姿を見ることはできませんでした。観賢は弟子の手をとり、お大師さまの温かな膝にそっと触れさせました。すると淳祐の手にはよい香りがうつり、沈香や檀などのにおいどころではありませんでした。淳祐の手から薫香は失われず、その淳祐が書写した経典類は、“薫の聖教”と称されて、今日でも貴ばれています。伸び放題になっているお大師さまの髪を、観賢は剃って差しあげました。そうしながら観賢は考えたのです。いくら未熟といっても修行をした淳祐がお大師さまのお姿を見ることができなかったのだ。もし将来誰かが奥院の御廟にやってきてお姿が見ることができなかったといって、お大師さまの入定を疑うものが出てくるかもしれない。非難があるかもしれないが、不信の輩が入ってこられないようにしたほうがよい。こう考えるに至った観賢は石垣を築いて御廟をふさぎ、人がはいることができないようにしました。亡くなったはずの身体がまったく傷まず残っていることを、法体堅固といいます。示寂しても打ち砕かれることなく、まるで生きているかのようなのです。これは、遥か後世の五十六億七千万年後に弥勒菩薩とともに再びこの世に下生するという、お大師さまの誓願によるものとです。
 お大師さまの死には入定という言葉が使われますが、不死の命を得るという意味です。本来は瞑想を実践するという意味なのですが、いつでもどこでもお大師さまは自分たちのすぐそばにおられるのだと考えたのです。お大師さまは必ずこの世に戻ってくるのですが、なにしろ五十六債七千万年も後のことです。そんなに長いこと待ってはいられません。この世に降りないまでも雲の間から見守ってくれているとし、「南無大師遍照金剛」と一言唱えさえすれば、たちどころにお大師さまと会うことができるのです。そして、すぐそばに寄り添っていてくださるというのです。同行二人とは、お大師さまが人生をともに歩いてくださるということです。目には見えなくても、お大師さまはそう願う人のそばには必ずいてくださるのです。
 延喜二一(九二一)年十月二十七日、醍醐天皇よりお大師さまに弘法大師の諡号が宣下されました。お大師さまが入定されて八十六年後のことでした。

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