覚心不生心・文殊菩薩・中観
文殊の智慧・空・戯論を断つ・無戯論如来・無相・無願の三解脱門
「文殊の利剣は諸戯を絶つ」
「不生と談ずれば、則ち文殊顔を絶戯之観に破る」
「八不に諸戯を絶つ、文殊は是れ彼の人なり、独空畢竟の理、義用最も幽真なり」
西南方 文殊菩薩
■三人寄れば文殊の智慧というように、文殊菩薩は智慧を象徴する仏様です。お大師様の『般若心経秘鍵』の冒頭に、
「文殊の利剣は諸戯を絶つ」とあり、鋭い剣にたとえられる文殊菩薩の智慧が、煩悩を断ち切ることを示しています。
文殊菩薩の智慧というのは、『般若心経』の色即是空で有名な、空の思想による般若の智慧です。大乗仏教の代表的な経典で、
般若・空の教えを説く『般若経』では、文殊菩薩が、すばらしい般若の智慧をそなえて、常に説法する姿が描かれています。
■ライオンの吼える声が他の獣を恐れさせるほど威力があることにたとえて、仏陀の説法を獅子吼といいますが、
説法の達人である文殊菩薩も獅子に乗る姿で表現されます。また、般若経の経巻と剣を持つ姿をとるのは、あらゆる智恵をそなえて、
鋭い剣のように、物事の是非善悪をすっぱりと決断する文殊菩薩の徳を明快に象徴したものです。破邪顕正の力強さを感じさせます。
中観思想(三論宗)
■『般若経』の「空」思想をうけて、龍樹(ナーガールジュナ 2〜3C)が体系化した中観思想が鳩摩羅什(くまらじゅう)
(クマーラジーヴァ 344〜413)の訳出により中国にもたらされ三論宗
(龍樹の『中論』、『十二門論』、弟子のアーリヤデーヴァの『百論』、以上で三論)
として、吉蔵(きちぞう)によって完成された。
■「空」思想は、『般若心経』でなじみ深いが、いわゆる説一切有部の唱える「三世実有法体恒有」の思想、
つまり言葉の指し示す概念が実在であるとする考え方を、ことごとく打破していく。
■『八千頌般若』第29章にこうある(『大乗仏典3八千般若経U』中央公論社)。
■あらゆるものが名前だけ、言語表現だけで述べられるにすぎないということから、知恵の完成に近づくべきである。
しかし、いかなるものについての言語表現もなく、いかなるものから生じる言語表現もなく、いかなる言語表現も存在しないのである。
あらゆるものは言語表現を離れ、表現されないと言うことから、知恵の完成に近づくべきである。
■我々が対象(諸法)に対して起こす執着、煩悩は、その対象にあるのではなく、我々の言語表現による概念規定にあるのであって、
対象自体は執着を離れて清浄であり空である。
■また存在論的に見れば、『中論』の「八不」に象徴されるように、法に自性というものがある限り、つまり単一であり、
独立であり、恒常的である以上、それらの法の間の因果関係は成り立たなくなる(例外が無為法で、虚空や涅槃など)。
故に一切の法は無自性空でなくてはならない。空故に縁起するのである。こうした縁起観こそが釈尊の「縁起法頌」
(諸法は縁より起こる。如来は是の因を説きたまう。かの法は因縁にて尽く。
是れ大沙門の説なり)に正しく則ったものだと自負するのである。
■我々は、言葉の規定する概念に実体、自性があるかの如く錯覚し、迷いとらわれるのであるが、言葉を離れて対象をあるがままに、
直観的に見る智慧が「般若」である。般若によって空じられた世界は、「色即是空」からとって返して「空即是色」となる
(西洋の絶対否定の後の絶対肯定同じ消息である)。また般若空の見た世界は「実相」、「真如」或いは「自性清浄心」と
肯定的で積極的な表現にもなる。空ずべきは我々の認識する現象世界ではなく、実は我々の言葉による概念規定(戯論(けろん))であり、
我々のとらわれの心である。心もまた不生であることを悟らねばならない(空海はこの三論宗の住心を第七「覚心不生住心」としている)。
■この般若「空」の思想は、大乗仏教の根幹として、主客の間の認識の機能に着眼した唯識思想、
心は客塵煩悩によって曇っているが本来は自性清浄であるとする如来蔵思想、
さらには密教、弘法大師の教学に連綿として流れている。
■中国では、龍樹の『中論』や『大智度論』が羅什によって訳され、弟子の僧肇(そうじょう)(384〜414)らによって、
「空」思想がそれまでの老荘的無による解釈に代わって、はじめて正しく理解されるようになった。
さらに隋の吉蔵(549〜623)により三論教学として大成される。
それは彼の著『三論玄義』に集約されるが、特筆すべきは、中国哲学に対し仏教の優位性を深く確信していたこと、
また、「無得の正観」(概念的なとらわれがないこと)、「不二の正観」(相対的でないこと)が生じれば「戯論寂滅」となり、
この「正観」の体得こそ三論の目的であるとする。しかしながら初唐を境に衰微し、固有の学派的伝統を維持することはできなかった。
■我が国へは、太子の時代に高麗の慧灌(えかん)が伝え、[
元興寺に住して三論を講じた。その後も元興寺がこの学の中心となって多くの学者を出した。
■空海は『十住心論』でこれを文殊菩薩の三摩地門とし、第七「覚心不生住心」とする。また『般若心経秘鍵』では、『般若心経』の
「是諸法空相」から「不増不減」までがこれにあたるとしている。また『三昧耶戒序』に「他縁大乗(第六住心)・覚心不生(第七住心)
の二種の法門は、身命を捨てて布施を行じ、
妻子を許して他人に与え、三大阿僧祇劫を経て六度万行を行ず。刧石の高広にして尽くしがたく
、弱心退しやすくして進みがたし。十進九退す、吾また何ぞ堪えん」とある。
参考文献
高崎直道『仏教入門』東大出版界
木村清孝『中国仏教思想史』世界聖典刊行協会
大般若転読
文殊
朝に美しい花を咲かせたと思ったら、夕べにはもう散ってしまい、
しみじみと諸法は空だと知らしめる花、夏のアサガオやハマナスなどの一日草をあげることができよう。
@アサガオ
アジア原産のヒルガオ科の一年草、左巻きの茎はほって置けば2メートルにも伸びるという。
漏斗状の藍紫・淡紅・白などの美しい花を早朝に開かせ、
日中までにはしぼませるので、この名前がついた。
わが国には薬草として渡来し、観賞用に栽培され始めたのは鎌倉時代以降のことである。
※朝顔の紺の彼方の月日かな 石田波郷
※朝顔やすでにきのふとなりしこと 鈴木真砂女
Aハマナス
バラ科の落葉低木、高さは1〜1.5メートル。6〜8月にかけて、
濃紅紫色の花を次々に咲かせ続けるが、一つひとつの花は命の短い一日草である。
花の散った後になる小さな実の浜梨(はまなし)が、ハマナスに訛ったという。
※はまなすや今も沖には未来あり 中村草田男