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発心・大円鏡智・阿閦如来・降三世明王

キーワード

結縁・仏縁・懺悔・無明・三毒・誓願・五大願

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般若心経秘鍵

「迷悟我にあえり、即ち発心すれば則ち到る」
「曾て医王之薬を訪わ不んば、何れの時にか大日之光を見ん」
「哀れなる哉、哀れなる哉、長眠の子。苦しい哉、痛い哉、狂酔の人」
「五蘊は横に迷悟を指し、三仏は堅に悟心を示す」
「解宝之人は、礦石を宝と見る」

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伝道標語集

「初発心の時にすなわち正覚を成ず」『華厳経』
「会いて空しく過ぐるなかれ」『涅槃経』
「専ら仏を念ずる者は目前に現ずるが如くならん」『涅槃経』
「直心にして道を念ぜば苦を免かるべし」『四十二章経』
「自心に菩提とおよび一切智とを尋求せよ」『大日経住心品』
「かくの如き深法は信を以てよく入る」『広付法伝』
「それ病なきときはすなわち薬なし、障あるときはすなわち教えあり」『秘蔵宝鑰』
「春の種を下さずんば、秋の実いかんが獲ん」『秘蔵宝鑰』
「仏道遠からず、廻心すなわちこれなり」『一切経解題』
「古の人は道を学んで利をはからず、今の人は書を読んでただ名と財とにす」『性霊集1』
「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」『性霊集8』
「三宝に帰依するは善を求むるの本、菩提心を発するは万行の源なり」『多門天講式』
「深信あるものは、よく悉地を得」『末代真言行者用心』
「涅槃の本際を究めんと欲せば、まず生死の本際を究めよ、悟らんと欲わば、まず迷いの本を究めよ」慈雲尊者
「今日彼岸菩提の種を蒔く日かな」与謝蕪村
「信は菩提の源」浄瑠璃『あふひのうへ』

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八葉蓮台諸尊

東方 宝幢如来(阿閦如来)

■胎蔵界の宝幢如来は金剛界の阿閦如来と同じです。宝の幢をかかげることは、 菩提心を起こすことを意味しており、また、阿閦とは、何事にも動じないという意味です。 ひとたび発心をしたならば、どんな誘惑や妨げにも心をとらわれることなく、 ひとすじに悟りへ向かって進む徳を示しています。このように、清らかで堅固な菩提心を起こすことを示した仏様で、 お釈迦様が、菩提樹の下で魔王の妨害にうち勝って悟りを開かれた(降魔成道)ことを象徴しています。 ■お釈迦様が右手を大地に触れると、土地の神様がお釈迦様の悟りを証明したという説話がありますが、 阿閦如来も同じく、右手を地につけた触地印という姿をとっています。 あらゆるものごとを映し出す大きな円い鏡のように、すべてを明らかに知り、 衆生済度に尽くす仏様の智慧(大円鏡智)をそなえておられます。 ■ご来光を拝むと、新しい力を頂ける気持ちになるように、この仏様は私たちに発心のすばらしさを教えてくれています。 この仏様のグループを金剛部といいます。

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五大明王

東方 降三世明王

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年中行事

<通年行事>
除夜の鐘
 大晦日の夜をとくに除夜というのは、この夜を除く、つまり夜ではないので寝ないで起きて過ごす、という意に由来するといわれる。一年最後の夜に旧年の無事を感謝し、新年の平安と開運を祖霊や寺社に祈るなど、さまざまな思いや意味をこめ、起きたまま新年を迎えるという習慣はかなり古くからあったようだ。煩悩と、煩悩によって成してしまった罪業を払うために寺院の梵鐘をつく、いわゆる「除夜の鐘」は中国の宋の時代に始まった習慣が伝わったものとされている。
 鐘をつく回数がなぜ百八回なのかは諸説があるが、一説には人間の煩悩は、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が六塵(色・声・香・味・触・法)に対すると、それぞれに好・悪・平が生じるので十八種、その十八種には染・浄の二種があり三十六種、さらに過去・現在・未来の三世があるため、あわせて百八種となり、その数に由来するという。

正月(修正会)
 修正会は新年を祝い、年頭にあたっての祈願を修す法会である。インドでは陰暦の2月、中国では陰暦の1月に行われていたという。日本では両方の時期が伝わっており、2月に修二会と呼ばれる法会を修す寺院も多い。
 日本では神護景雲2年(768年 称徳天皇の御代)に諸国の国分寺で17日間の祈願を行ったのがその初めであるという。奈良・平安時代を通じて仏教が護国宗教的な性格をより濃くしていくに従い、国の安泰と作物の豊穣を願って、大寺で盛んに行われるようになったが、その期日・期間や次第は当時からさまざまであったようだ。

灌佛会(花まつり)
 釈尊の誕生を祝す行事であり、釈尊が悟られ、説かれた仏法に触れることができたことに感謝を表明する法会でもある。「仏生会」「釈尊降誕会」などともいわれ、「成道会」「涅槃会」とともに釈尊の三大法会として重きをおかれている。灌佛会を花まつりと呼ぶようになったのは比較的新しく、明治時代に入ってからで、浄土宗が用いたものが広まったといわれている。
 インドでは仏跡の彫刻などから、かなり早くから灌佛が行われたと考えられているが、とくに4月8日と決まっていたわけではないらしく、期日が定まったのは中国に伝わってからのようだ。
 日本では、推古天皇14年、4月8日と7月15日、寺ごとに斎を設けたという記録があり灌佛会と盂蘭盆会がこの時代はじまったことがわかるが、どのような法会が営まれたかはわかっていない。宮中では承和7年(840年 仁明天皇の御代)清涼殿において灌佛を行った記録がある。
 鎌倉・室町両幕府も灌佛を行っており、室町期以降、とくに江戸時代からは諸国の寺院でも行われるようになり、次第に民間にも広まった。

節分(星まつり)※『峨山布教資料集』P13 布教歳時記の2月
 節分は、本来年に4回ある(立春・立夏・立秋・立冬の前日)が、現在は立春の前日のみを指すようになっている。
 新しい季節を迎える時期に、邪気を祓い招福を祈る行事が行われる。鬼を追い払う追儺(ついな)の風習は唐のころ日本に伝わったといわれるのが、宮中の追儺の行事は鎌倉時代の終わりごろまでは大晦日に行われていた。現在でも鬼追いの行事が正月に行われる寺院がある。
 「福は内、鬼は外」と豆を投げて鬼を追い払う形式は明の風習が室町時代に輸入されたものとされているが、諸説ある。晦日や節分の頃は百鬼が夜行する時節と考えられており、邪気を払う行事が行われているのだという。鬼を払うのに豆を用いるのは「マメ」が「魔滅」に通じるからだという。
星まつりも伝来当初、正月の行事として行われていたようだが、現在では節分に行われることが多い。人の運命を支配するといわれる宿曜を敬重し、行法を修することで息災・増益・延命を得ようとするもので、密教的な色彩が濃い。
・青葉祭 ※『峨山布教資料集』P26 布教歳時記の6月
・御影供 ※『峨山布教資料集』P16 布教歳時記の3月

<通過儀礼>
葬儀
 葬送に関するさまざまな儀礼もまた、他の行事と同じく、日本本来の習俗と外来宗教である仏教との習合が多く見られる。
 葬儀は、他界へ向かう亡者との借別の式であり、亡者の旅立ちの場であるという観念は古くからあったが、とくに浄土思想が民間に浸透すると、仏界、いわゆる浄土への旅立ち、という色彩が濃くなってくる。棺の中に笠や杖、金銭・米などを入れ、亡者に草鞋を履かせ、帷子を着せるなどの旅仕度を整えるようになったのは浄土思想の影響といわれている。浄土真宗と日蓮宗を除き、仏式葬儀では受戒を模して亡者に新たに名を授け、信者とした上で、冥界にて迷う事なきよう引導を行うという形式が主である。
 葬儀は生の終焉を悼むだけの式ではなく、むしろ祖霊の持つ仏国土への迷いなき旅立ちを祈るという側面が大きい。
七回忌 ※『峨山布教資料集』P77 布教の栞「七回忌」

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花と華道

発心
悟りを求める心は四季のうちの春に当てはめることができよう。 発心にふさわしい花と言えば、新年や春の花、それも可憐で少し控えめな花がふさわしいように思う。 たとえば、新年のフクジュソウ、春のスミレやカスミソウ、あるいは「信じるものの幸福」という花言葉を持つアヤメなどどうだろうか。

@フクジュソウ
キンポウゲ科の多年草。花は黄金色で朝開き夕方には閉じる。その名前の縁起のよさから正月の床飾りとして用いられ、元日草ともいう。
※日記まだ何も誌さず福寿草 遠藤梧逸

Aスミレ
スミレ科の多年草で草丈は10〜20センチ。3〜5月に濃い紫の花をつける。可憐な花の姿は古来より詩歌に詠まれ愛されてきた。
※山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉
※菫ほどな小さき人に生まれたし 漱石

Bカスミソウ
ナデシコ科の一年草〜多年草で草丈は30〜120センチ。5〜8月に赤・ピンク・白の花を咲かせる。 一つひとつではあまりめだたないが、ばらやカーネーションと合わせると、その個性を見事に引き立てる。

Cアヤメ
アヤメ科の多年草で草丈は30〜60センチ。5〜6月にかわいた土地で紫の可憐な花を咲かせる。 花言葉は「信じるものの幸福」である。
※花と花の間さびしく花あやめ

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写経

写経を書こうと思いつくこと。そうしようとする意識。

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はなびら

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標語集

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弘法大師事跡

久米寺での大日経感得 三教指帰(出家宣言) 捨身ヶ岳(出釈迦寺)

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説話

仏を求めて

お大師さまはこの世がどのようにして成り立っているのか、宇宙の真理とは−体何かといつも考え、そのことを知りたいと念じていました。もちろんその態度は生涯を通じて変わりませんでした。宇宙とは、人間とは、自分とはと問いつづけ、探究の思いはますます強くなるばかりです。
「仏はいったいどちらにいらっしゃるのでしよう。どうか釈迦如来にお目にかかりたいものです」いつもこう念じていたお大師さまは、讃岐国にある険しい捨身岳に登りました。山頂で一心に祈り、十方の仏法僧を念じて願を立てられたのです。
「仏法によって多くの人々を救う道が私の進むべき道ならば、助けたまえ」お大師さまは虚空に向かって力のかぎり念じると同時に、峰から谷底に向かって身を投げました。お大師さまはそのようなことを三度もしたのですが、その三度とも、どこからともなく天人が現れ、お大師さまの身体を柔らかく受けとめたのでした。落ちれば必ず命を落とす高いところから身を投げたのに、お大師さまはまったく怪我もしませんでした。命を捨てる覚悟で虚空に身を投げ、自分を捨てて、きっとお大師さまは誓願どおりに釈迦如来をその目で見ていたに違いありません。お大師さまは、後にも身を捨てるような厳しい修行をくり返すのですが、まさにそのはじまりだったのです。

ある時、お大師さまはご自分の誕生の地、讃岐国多度郡屏風ケ浦にありました。このあたりの山は屏風を立てたような姿をしていて、また奇岩もたくさんあり、名勝とされているところです。お大師さまがそのあたりで黙想しておりますと、峰から雲が湧き上がり、その上に釈迦如来がお姿を現されました。お釈迦さまはお大師さまの誓願にこたえられ、お姿を現されたのです。そのお姿を感得されたお大師さまは、思わずひざまずき礼拝いたしました。お大師さまはこの峰を、我拝師山、もしくは、浦出の岳と名づけたのでした。

虚空蔵求聞持法
谷響きを惜しまず、明星来影す

「ここに一人の沙門あり。余に虚空蔵聞持の法を呈す。その経に説く、若し人、法に依ってこの真言一百万遍を誦ずれば、即ち一切の教法の文義を暗記することを得る」
『三教指帰』のお大師さまの言葉です。虚空蔵求聞持法とは、記憶力を増すための荒行です。虚空蔵菩薩の化現の明星を迎えるため、小屋の東の壁に小窓をつくり、月輪形の板に御本尊を描き、虚空蔵菩薩の真言を百万回唱えるのです。成満すれば八万四千の経典をすべて読誦したのと同じ智慧が授かるとされるのです。お大師さまは阿波国の大滝ケ岳や、石鎚山などで虚空蔵求瀾持法を修してきました。この法は東南西の開けた地、すなわち虚空蔵菩薩の化視である朝日、夕日、明星の光が窓からはいり御本尊を照らすことができる地形が霊地とされたのです。

ある時、お大師さまは土佐国の室戸の崎の崖の上で、一心に虚空蔵求聞持法を修しておられました。海は穏やかで果てしなく広がり、空は晴れ渡っています。虚空を蔵する菩薩の真言を一心に唱えていると、自分の心の中も、一点の曇りもなく澄んでくるのでした。お大師さまはこの海や空と一体になると感じ、自分の身体が限りなく拡大していったのです。ちょうど夜明けの頃で、波の彼方に明けの明星(金星)が輝いていました。遠くにあったはずの明星は、ふと気づくと目の前にあるではありませんか。金色の星はどんどん明るさを増し、速度を上げて近づいてくると、お大師さまの口の中に飛び込んできたのです。お大師さまは、大宇宙や仏と一体になったことを感じました。

「谷響きを惜しまず、明星来影す」と、明星がロの中に飛び込んできた時の様子を、お大師さまは簡潔にこう書いています。山や谷の全体が響き渡るような大きな感動があって、黄金の星が飛んできた様子が知られます。虚空蔵菩薩が光明によってお大師さまを照らし、仏法のこの上ない価値を示したのです。こうしてお大師さまは密教の世界をまず実体験し、これはどういう世界なのかと知るために経典を読み、なお厳しい修行をくり返すのです。

ある時、お大師さまは土佐国の室戸の崎にありました。この景勝地にお大師さまは寺を建立したのです。その寺を金剛頂寺と呼び、お大師さまはなお修行をつづけたのです。ところが昼といわず夜といわず天狗などの魔物がやってきては、修行の邪魔をするのです。このあたりに住む魔物たちにとっては、室戸の崎が仏の国になっては困るのでしょう。大師さまは法力により、魔物を調伏しました。仏教がこの国に受け入れられ、諸国に国分寺が建立されたといっても、地方に行けばまだまだ仏の教えは浸透していなかったのでしよう。修行をしていても、時には邪魔をされたのではなか。天狗などの魔物は、お大師さまに敵対してくる人たちや無知の人たちのことで、こうしてお大師さまがご修行されした場所は、四国八十八箇所札所として、今も多くの人々の修行道場となっています。室戸の崎の金剛頂寺は、第二十六番札所となっています。

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