般若心経秘鍵に学ぶ~⑪~

般若心経秘(はんにゃしんぎょうひ)鍵(けん)に学ぶ⑪

 

 平成三十年に、大覚寺ご始祖(しそ)嵯峨(さが)天皇さまが、国民の安寧(あんねい)を祈願(きがん)して浄写(じょうしゃ)された勅封(ちょくふう)般若心経千二百年の節目を迎(むか)えるにあたり、般若心経の功徳(くどく)を讃(たた)え、その霊験(れいげん)を仰(あお)ぐべく、前号に引き続きましてお大師さまの著作(ちょさく)である『般若心経秘鍵』のお言葉に触れていきたいと思います。

 ~真言(しんごん)は不思議(ふしぎ)なり 観誦(かんじゅ)すれば無明(むみょう)を除(のぞ)く 一字(いちじ)に千理を含(ふく)み 即(そく)身(しん)に法如(ほうにょ)を証(しょう)す

 

 前号では、お大師さまのご教示される真言について触れましたが、右に記していますのはその真言のご利益(りやく)についてのお大師さまの御言葉であります。

 「真実の言葉である真言は不思議な力がある。仏さまの世界を観察し真言を読誦(どくじゅ)すれば、その力によってわたしたちの迷いの根源(こんげん)たる無明(むみょう)を除くことができる。真言の一つ一つの文字には無限の道理が含まれており、この身このまま仏さまになる道を証すのである。」

 聞き慣れない言葉として「観誦」という仏教用語があります。「観誦」とは「観(かん)」察(さつ)・読(どく)「誦(じゅ)」の略であります。但し、私たちが通常使うような観察(かんさつ)とは少し意味が違います。一般的には、小学校の夏休みの宿題にある朝顔(あさがお)の観察のように、対象の実態を知るために注意深く見ること、または、その変化の経過を記録することであります。それに対し仏教でいいます「観察」とは、物事(ものごと)を心に思い浮かべ、細かく明らかに、そして正しく熟思(じゅくし)、熟考(じゅっこう)することを意味します。つまり、それは心の観察であり、自分自身の心を正しくありのままに見つめるということであります。私たちの心には、仏さまの安らかな境地(きょうち)に成り得る種を誰もが宿(やど)しています。それは美しく咲く蓮(はす)の花の種が泥(どろ)のなかにあるのと同じです。種が泥の中に埋もれているがごとく、私たちの心もまた深く暗い煩悩(ぼんのう)に覆(おお)われています。しかし、正しく自分自身を見つめたとき、その煩悩は取り除かれ心のなかの仏さまの種に気付き、それがやがて芽生(めば)え、仏さまの世界を観念することができるのではないでしょうか。そのような気持ちをもって真言を誦(じゅ)することが、お大師さまがここで申されている「観誦」ということであります。

 また、観誦することで「無明」が除かれると説かれています。無明とは、これもまた仏教用語で、私たちの煩悩の根源(こんげん)を意味します。文字通り、明かりが無い心の状態で、闇(やみ)ということができます。私たちが迷い苦しむさまは、闇夜を照らす月の明かり、星(ほし)の光りすらない真っ暗闇の中で、進むべき方向すら全く見えず、一歩たりとも踏み出せないでいる哀(あわ)れな状態に譬(たと)えられます。その時一筋の光明となって進むべき道を照らし出してくれるのが、「観誦」によって得られる仏さまの「法如」、すなわちさとりの光なのです。

 お釈迦(しゃか)さまは、私たちが決して逃れることができない苦しみを、四(し)苦(く)とお説きになられています。生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の苦しみです。これらは、私たちが生きているかぎり誰もが味わう苦しみです。他にも生きていれば色々な苦しみがあることでしょう。愛する人との別れの苦しみ、欲しいものがあっても手に入らない苦しみ、会いたくない人でも会わなければならない苦しみ、一見(いっけん)幸せと感じるような生活の日々を送っていても、貪欲(どんよく)な心で物事(ものごと)に執着(しゅうちゃく)してしまうことで味わう苦しみなど様々にあります。

 そのようにそれぞれが何かしらの苦しみのなかにあって、人は心(こころ)豊(ゆた)かに生きたいと願います。神仏(しんぶつ)の御前(みまえ)にお参りしますのはその表われでありましょう。殊(こと)に、仏さまの御前では真言をお唱えいたします。その時、不思議な力を有する真言を「観誦」することによって「無明」を除き、この身(み)このまま仏さまのような安らかな気持ちを体得(たいとく)できるのですよと、お大師さまは説かれています。