般若心経秘鍵に学ぶ~⑩~

平成三十年に、大覚寺ご始祖(しそ)嵯峨(さが)天皇さまが、国民の安寧(あんねい)を祈願(きがん)して浄写(じょうしゃ)された勅封(ちょくふう)般若心経千二百年の節目を迎(むか)えるにあたり、般若心経の功徳(くどく)を讃(たた)え、その霊験(れいげん)を仰(あお)ぐべく、前号に引き続きましてお大師さまの著作(ちょさく)である『般若心経秘鍵』のお言葉に触れていきたいと思います。

 

~総持(そうじ)に文(もん)・義(ぎ) 忍・咒あり 悉く持(じ)明(みょう)なり 声(しょう)字(じ)と人法(にんぽう)と 実相(じっそう)とにこの名(な)を具(ぐ)す~

 

 右に記しましたのは、『般若心経秘鍵』のなかの詩文で、真言(しんごん)について、お大師さまが述べられたところであります。

真言とは、聖(せい)なる真実の言葉という意味で、古代インドの言語であるマントラの訳語であります。昔のインドでは毒蛇(どくへび)避(よ)けや、病気等を治癒(ちゆ)する呪文(じゅもん)のようなものが存在していました。ここ日本においても一昔前でしたら、親が、怪我(けが)をして泣いている子供に「アビラウンケン」という真言を「おまじない」のように唱えていました。      

仏教の開祖であるお釈迦(しゃか)さまは、最初は弟子たちに、そのような呪文は禁止していたそうですが、弟子たちのこれによる生活への影響を考慮(こうりょ)され、その呪文を許可したといわれています。

また、私たちが、お寺に参拝して仏(ほとけ)さまの御前(みまえ)で祈りを捧げるとき、その仏さまの真言をお唱えすることがあります。聞く人によっては、日本語ではない何か呪文のようにも聞こえる、その真言を大きな声で唱えている人もいれば、かすかな声で唱えている人もいますし、唱えずに心の中で念じている方もおられます。おそらく、大半の方はその真言の意味は分からずとも、自分自身や他者の苦しみが除かれ、心が安楽(あんらく)になることを願って、その仏さまの真言を信じてお唱えしていることでしょう。

古代インドに起源をなし、インドの言葉をそのまま現代においてもお唱えしている真言について、「真言には文字による教え、その深い意味、真理への理解、咒(しゅ)の持つ霊力の四つの側面があり、このそれぞれすべてが真言である。真言を唱える声、その文字、唱えている人、真言の指し示す真理、そしてこの世界のありのままの姿、この五種のそれぞれに先ほどの四つの側面が備わっている」とお大師さまは申されています。

 このお大師さまの用語のなかに、「咒」という字があります。通常は「咒」という字よりも多く見かけるのは「呪」という字ですが、どちらの字も『漢語林』によれば同じ字で、その意味は「のろい」「いのり」「まじない」であります。お大師さまは、「咒」「呪」二つの漢字を「吉(きち)」「凶(きょう)」と明確に区別したとされています。確かに、呪文という言葉の意味を考えたとき、そこに含まれている意味は、祈(いの)りと呪(のろ)いが混在(こんざい)しているように感じます。真言とは仏さまの教えであり、聖(せい)なる真実の言葉であるのですから、お大師さまはそこに呪いという要素が含まれないように、区別して「咒」という字を用いられました。

 私たちが、仏さまの御前でお唱えする真言はまさに、咒という祈りの言葉であります。だからこそ、インド古来のそのままの言語で、真実そのままにお唱えしているのであります。

  振り返ってみますと、今日(こんにち)の成長した自分があるのは、良き家族、友人、先生や様々なご縁(えん)のある方々のお蔭(かげ)によるものです。自分が落ち込んだり、困ったりしたときに、励(はげ)ましの言葉をいただいたり、あるいは、自分の間違いを叱責(しっせき)されたりしたことは誰もがあるはずです。また、言葉だけでなく、一緒に泣いてくれたり喜んでくれたりしたことだけでも救われ、それが人生の大きな糧(かて)となったこともあるでしょう。そのときどきの言葉や状況はもう覚えていないかもしれませんが、今日の自分にとっては、それら一つ一つが真実のことば、真言であり、それが自分の中で静かに堆積(たいせき)して、現在の自分を支えてくれていることに思い至ります。

 決して「呪」ではなく「咒」を用いる『般若心経』、そして明確にそれらを区別されたお大師さまの教えに触れる時、真言の教えが人々の幸せへの「祈り」であることを気づかせてくれます。