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観華蔵於心海
◎出典/『遍照発揮性霊集』巻第二
◎揮毫・法話/下泉恵尚 門跡猊下
◎挿花/華務長 岡田脩克
花材/蓮
花器/創作花器 |
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「華蔵を心海に観ず」
地球が太陽系に属し、太陽系が銀河系にあり、
銀河系がさらに大きな宇宙の秩序の中に浮かぶ。
このような現代の宇宙観と同じく
『華厳経』には、宇宙を包む壮大な蓮華があり、
その中心に、盧遮那仏という無限大の仏さまが坐り、
蓮の無数の花びらの上、ひとつひとつに、
それぞれ仏さまの理想世界があると説く。
これが蓮華蔵世界で、華蔵ともいう。
私たちの世界も、本来、華蔵のひとつであるのだが、
心の海に仏さまの世界を見るためには、
広々として静かな心となるよう、浄めなければならない。
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十一月「弦」
◎揮毫/下泉恵尚 門跡猊下
◎挿花/華務長 長谷川喜洲
花材/椰子 漂白キウイ
葉鶏頭 吾亦紅
ストレリチア
花器/創作花器 |
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楽器の起源は人類の文明と同じように古く、
いまさら辿りようもないが、
おそらくは身辺の木石を打ち鳴らした
打楽器のようなものから始まったのだろう。
それに比べれば弦楽器は相当に文明の程度が進んでいて、
そこには明確な音階の意識が成立している。
従って、世界のさまざまな民族が、
それぞれの音楽文化にふさわしい弦楽器を持つ。
いま、一瓶の中に、
世界中の地域に由来する花が出合う。
そのようなことが可能になった現代は、
多様に分化した楽器が再び出合って、
一つの和音を奏でることができる時代でもある。
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ちくまん vol.27
歳時随想
「ヒマワリ」 |
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夏にふさわしい花といえばヒマワリだろう。その名前は太陽とともに回転すると考えられたことに由来する。いつも身近に咲いていて、どこか懐かしさを感じさせる花である。
さて奈良県出身で俳誌『圭』を主催する津田清子(1920〜)は、
向日葵の一茎一花咲きとほす
(『花の歳時記』夏、講談社刊)
と詠った。作者は照りつける太陽のもと、流れる汗をぬぐおうともせず、太い茎に大輪の花をいただいたヒマワリを見上げている。それはいかにもヒマワリらしい姿であり、信念をつらぬき咲いているような印象を受けたというのだ。句中の「咲きとほす」という言葉に作者の熱い共感が込められている。
私たちもこんな芯のとおった人生を送りたい。まず自分がどんな人間であるかを知ることから始めよう。やがて進むべき道も明らかになるはずだ。あれもこれもと欲張るのではなく、ひとつのことをじっくりとやり続けよう。いつの日か自分にふさわしい花を咲かすことができるに違いない。
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ちくまん vol.20
十三仏
「〜金剛薩埵〜」
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金剛薩埵という仏さまの名前をお聞きになったことはあるでしょうか? お地蔵さんや観音さん、お薬師さんやお不動さんなどはよく聞かれる仏さまの名前で、皆さまの近所にあるお寺のご本尊さまも、そのような仏さまであることが多いことでしょう。しかしながら金剛薩埵という仏さまの名前を、お聞きになったことがある方は少ないと思います。今回は、その金剛薩埵という仏さまをご紹介いたします。
金剛薩埵は、密教の教主大日如来と私達の接点にある仏さまで、すべての衆生の悟りを求める心、菩提心そのものであるとされ、その菩提心の堅さは金剛(ダイヤモンド)にたとえられます。十三仏では三十七回忌に導く仏さまとされており、ご真言は「おん ばざら さとば あく そわか」とお唱えします。「ばざら」は金剛、「さとば」は有情・人の意味で、意訳と音訳を合わせて金剛薩埵と称します。別称として、執金剛や金剛手、金剛主秘密王などがあります。
お姿は、密教の世界を図画で表した曼荼羅に登場し、金剛界曼荼羅では身は肉色で右手に五鈷杵を胸前に斜めに持ち、左手に金剛鈴を持って腰に置く形等があり、五鈷杵は五仏(大日、阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)の三昧、金剛鈴はすべての衆生を驚かして菩提心を起こさせる意味があります。大悲胎蔵生(胎蔵)曼荼羅では右手を胸前に上げて三鈷杵を横たえて持ち、左手は金剛拳を結んで親指を前にして胸に当てた形で普賢菩薩と合体した姿として表現されています。『密教辞典』(法蔵館)によると、昭和元年に焼失した高野山金堂安置の秘仏や、現存する彫像として東寺講堂の五大菩薩中の金剛薩埵像や京都随心院の金剛薩埵像が名作であるそうです。
ところで、真言宗には真言八祖という真言宗の教えが伝わった系譜があります。それは、一 大日如来、二 金剛薩埵、三 龍猛菩薩、四 龍智菩薩、五 金剛智菩薩、六 不空三蔵、七 恵果阿闇梨、八 弘法大師となっており、これを付法八祖と言います。密教は大日如来から金剛薩埵に伝授され、南インドの龍猛菩薩がそれを南天の鉄塔で受け、龍智菩薩に授け、その後中国に伝わり、八人目の弘法大師まで継承され日本に伝わりました。その付法八祖の二番目に金剛薩埵がおられることでおわかりのように、金剛薩埵は悟りを開く仏の代表であると同時に、密教を衆生に伝える重要な仲介者でもあります。大日如来から説かれた教えを、我々衆生に授ける「接点」の役目なのです。菩提心の堅さがダイヤモンドのようにたとえられるのは、やはり自らの悟りを開くと同時に、密教を伝えるにはそれだけの強固な心が必要であるということでしょうか。それ故、真言行者は行法を行う時の心得として、自分は仏の子であり、金剛薩埵であると自覚しながら行を行います。
三十七回忌の卒塔婆に記される金剛薩たの偈文には「菩薩勝慧者 乃至盡生死 恒作衆生利 而不趣涅槃」とあります。真言宗で読誦されている『理趣経』の百字の偈の一部で「悟りを開いた者は、生死を尽くすに至るまで、恒に衆生の利を作し、しかも涅槃に趣かず」ということですが、この偈文は金剛薩埵のあり方を示しています。金剛薩埵は自己の問題を解決するだけではなく、進んで人を教化し、生涯を通して衆生の苦がなくなるまで精進するということを説いています。この『理趣経』は、大日如来が金剛薩埵のために、一切の諸法は本来が清浄であることを説いている教典で、真言宗では特に尊重している教典であり、お葬式や法事などにも読誦されています。教典の最後には毎日の早朝に読誦し、聴き、書写し、受持する等、この教典を信奉し、その教えを自らのものとしていくなら、金剛薩埵となってこの世の大楽が自らのものとなって願いはすべて成就されると説かれています。
現世に目を向けてみると、今、金剛薩埵のあり方が非常に強く求められる世の中ではないでしょうか。自己の権利ばかりを主張し、義務を果たさない。ただ自分さえよければよいという風潮は、世の中の秩序を崩壊させかねません。そのような時こそ、まさに自己の菩提心を引き出し、自利利他の精神で金剛薩埵になるべく目覚める必要があるでしょう。人間は自己中心的になりがちで、煩悩にまみれて、本来持っている清浄な心が見えなくなります。しかし清浄な心は、誰の心からも消えることはありません。自らが、その清らかな心を曇らせているわけですから、自らが悟りを求めようとしたその時、その清らかな心を認識することは難しいことではないでしょう。金剛薩埵は、その清らかな心を悟りつつ、衆生の苦をなくそうと精進する強さを備えた仏さまであり、それはまた、常に自分の心の中に存在する仏さまなのであります。
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−心を澄ます−
「はなびら」vol.67より |
文/北川清仁
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仏道を歩む、修行させていただくとは、どのようなことをいうのでしょうか。善悪をわきまえて行動し、心を澄ますように努力することだというのが、ひとつの答えです。
善とは楽をもたらすもの、悪とは苦をもたらすものです。悪いことを考えたり行なったりしますと、不快であり心が動揺します。善いことをすると気持ちがよいもので、また、心が安らぎます。このことは子どもでも知っていることですが、常に善悪をわきまえて行動することはなかなか難しいことです。また実際の場面で、どうするのが良いか、悪いことかと、迷うこともあります。この場合、仏教の原則は、相手の身になって考えよ、です。
善悪のわきまえは万人の務めですが、仏道修行に際しても、ことさらこのことが説かれるのは、善を修すことによって、おのれの心が澄み清らかになるからです。また、心が澄むと、おのずから善を修するようにもなります。
澄んだ清らかな心とは、心本来の姿であると説かれています。仏道修行とは、心本来の清らかさを取り戻す道でもあります。心が本来、清らかであるから、修行によって清らかとなりうるのです。
心は清らかなものであったけれども、貪り、怒り、愚かさ、「おのれ」という自己中心の意識、「おのれのもの」という所有欲、愛執や嫌悪などの煩悩の、いわば塵によって、その姿が覆われてしまっていると説かれています。仏道修行とはその塵を払うことです。
わたしたちの心の、その清らかで光り輝いている本性を仏性といいます。仏さまと分け隔てのない本性です。
仏前でのお勤め、写経、霊場巡礼など、仏道修行にはさまざまなかたちがあります。それらの修行を続けることによって、心の濁りが、おのずから澄んでいき、心の本性が少しずつ花開いていくのです。
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