『般若心経秘鍵』に学ぶ ⑫

 

医王いおうにはみちれてみなくすりなり
   解宝げほうにん礦石こうしゃくたからる~

上の般若心経秘鍵の一節は、物事ものごとの本質を見極みきわめることの例えとして述べられたお言葉で「良い医者の目からすれば、道端みちばた何気なにげなくえているくさの中に薬草やくそうを見出し、宝石の専門家からすれば、色々な鉱石こうせきの中から宝石を見つけることができる」と申されています。

冒頭に出てくる医王とは、すぐれた医者が患者の病気の本質を見極めて、その患者に合ったくすりを処方し治療するように、私たち衆生しゅじょうも仏さまの教えによってやすらかなこころとなり救われることから、ほとけさまをすぐれた医者に例えたものです。特に、数ある仏さまのなかでは、薬師如来やくしにょらいさまを医王と申し上げます。「お薬師さん」という呼び名で馴染なじみの深い薬師如来さまは、左手に薬壺やっこをお持ちになり、右手は「何も恐れることはありませんよ」とおおせになられているかのように、手の平をそとに向ける施無畏せむいという印相いんそうをされているのが特徴とくちょうです。ご自身やご家族、親しい方の病気平癒びょうきへいゆの願いをたて、ご利益りやくを求めて薬師如来さまにもうでになられる方も少なくはないでしょう。

そのような薬師如来さまのからすれば、私たちのなかにも薬草のような役立つところを見出みいだして下さり、宝石のような貴重な部分も見て下さるとお大師さまは申されています。私たちは物事ものごとを見るとき、好き嫌い、良い悪いというように分別ふんべつしてしまいます。分別あるものの見方といえば良い意味でとらえられますが、仏さまの教えであるへだてない無分別むふんべつ智慧ちえをもってよく観察かんざつすれば、この世界にあるすべてのものが、優れた価値を持つものであるというのがお大師さまの教えなのです。

例えば、私たちの生活に目を移しますと、春から夏にかけて成長し、秋には黄色い花を咲かせ、風物詩となっているススキを抑制よくせいする外来種の背高泡立せいたかあわだそうというくさがあります。ぞくに雑草の女王とも言われるこの草は全国的に広く分布ぶんぷし、草引くさひきをしようとしても根が深く、非常に厄介やっかいな草だとされます。これは雑草だから駄目だめだと判断して除草剤じょそうざいをまいたりして取り除かれることが多いのですが、実はこの草は原産地の北アメリカではゴールドロッドと呼ばれ、蜜源植物みつげんしょくぶつとしてその蜂蜜はちみつは大変人気があり、またその成分はアレルギーにも効能があるとされます。

このように一つの草だけを考えても、見る人の価値観で大きく違います。ただ一つの基準しか持たない分別では雑草は雑草でしかありませんが、他方では、この草から蜂蜜が採取さいしゅでき、薬としての効能があるという大きな存在価値が認められているのです。

そのような草や石だけではなく、私たちは、物事を見るときどうしても分別をつけて見てしまいます。周囲の評判や評価を鵜呑うのみにして、それをあたかも真実かのように捉えて、本来の価値や魅力を見失い、ついつい誤った見方みかた見解けんかいをしてしまうことはないでしょうか。現代社会においては、インターネットの普及もあり、いつでもどこでも知りたい情報を得ることができる程に情報はあふれていますので、尚更なおさら、物事の本質をしっかりと見極めるということが、少しなおざりになっているのかもしれません。

お大師さまがご教示くださっている、仏さまの無分別な智慧をもって正しく物事を観察すれば、必ずその本質を見極めることができるはずです。しかし、私たち判断する側が、智慧という明かりをともさず、真っ暗な中、手探てさぐりで決めてしまえば本質は永遠に見えることはないでしょう。私たちに求められるのは、智慧という明かりを灯せるよう仏さまの教えを信じて精進することであります。般若心経の読誦どくじゅ写経しゃきょうもその方便ほうべんの一つであります。