旧嵯峨御所 大覚寺 門跡 DAIKAKUJI TEMPLE
大覚寺とは
不動明王 私は不動明王です。大覚寺の本尊は私を含めた五人の明王(五大明王)です。
私は、皆さんを苦しめる災難や迷いの心を剣となわで断ち切り、幸せに導くようお守りします。
昔、天下に大きな災いのあったとき、嵯峨天皇は弘法大師に大覚寺の地で私をおまつりするよう命じられ、嵯峨天皇は写経祈願をなさり、私は国家の安泰と国民の幸福を祈りました。
それ以来、大覚寺は心経の本山・写経の道場として多くの人に親しまれるようになりました。
嵯峨天皇と弘法大師
延暦13年(794)、桓武天皇は新都平安京に遷都しました。その20年後に即位した嵯峨天皇は、都より離れた葛野の地をこよなく愛され、后との新居として嵯峨院を建立されました。これが現在の大覚寺の前身・嵯峨離宮です。
嵯峨の地名は、唐の文化に憧れていた天皇が、唐の都・長安北方の景勝地、嵯峨山になぞらえたものです。
嵯峨天皇
  嵯峨天皇
弘法大師 嵯峨天皇は中国の新しい文化を伝えた入唐求法の僧侶のうち、ことに弘法大師空海と親交を深められ、高野山開創の勅許、東寺の下賜と恩寵を賜りました。
当時起こったという飢饉に際して、天皇は般若心経を写経、皇后は薬師三尊像を浄写、弘法大師は嵯峨院持仏堂の五覚院で五大明王に祈願しました。
このとき天皇がお書きになられた般若心経は、現在も大覚寺心経殿に伝えられています。
弘法大師
嵯峨院から大覚寺へ
貞観18年(876)、嵯峨天皇の長女・正子内親王が嵯峨院を大覚寺と号し、初代門跡(住職)に淳和天皇皇子の恒寂入道親王を迎えられました。親王は嵯峨天皇の孫であり、また弘法大師の法灯を継がれた方で、嵯峨天皇と弘法大師の親交と理想を受け継いで、新たに大覚寺を出発させたのです。
後宇多法皇と南朝
その後、後嵯峨上皇、後宇多法皇が続いて大覚寺門跡となられ、当時、皇位が2分され南北朝と呼ばれた時代に、後宇多法皇の皇統は上皇が大覚寺にお住まいになられたことから大覚寺統(南朝)と呼ばれました。法皇は大覚寺の興隆に尽力され、広大な伽藍を造営されましたが、その後、しばらくして火災により焼失してしまいました。
元中9年(明徳3年・1392)には、南北朝の媾和が大覚寺で行われ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って大覚寺に入りましたが、そののち後亀山天皇は吉野へ移り、南朝の再興運動が起こりました。大覚寺もこれに深く関わっています。
後宇多法皇
後宇多法皇
戦禍・再建から現代へ
戦国時代、応仁の乱によりほとんどの堂を焼失、衰退しましたが、江戸時代初期にはほぼ寺観が整いました。大正年間には心経殿が再建、心経前殿も造られました。また、大正11年(1922)には、大沢池附名古曽滝跡が国指定名勝として、昭和13年(1938)には、大覚寺境内全域が大覚寺御所跡として国指定史跡に指定されています。
大覚寺は、嵯峨天皇と弘法大師が、ともに国家の安泰と国民の幸福を祈願されたお心を受け継ぎ、特にその祈願のために、嵯峨天皇みずから般若心経の写経をなさったことから、現在も般若心経の根本道場として多くの人々に親しまれています。また、嵯峨天皇が嵯峨離宮庭内で手折られた菊を瓶に生けられたことに始まる「いけばな嵯峨御流」は、伝統ある歴史と格式を持ちながら、現代感覚に即した発展を遂げ、年々隆盛の一途をたどっています。
また、現在では「近畿三十六不動尊霊場」の第十三番札所として、全国各地から参拝者が訪れます。
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